二十一 私の如来 今日は一日どんよりとした日でありました。朝からすべてが衰え切ったような力の無い気分に囲まれて、 曇った空に圧迫の重みを感ぜさせられる厭な日でありました。それでも晴れた日と同じように暮れてしま いました。そしてその中にもやはり万物を育む春の力は休まずに動いているのでありました。こうした中 にすべて自然は生命の芽生えに向かって押し進められつつあるのでした。私はここに物質に対する力の戦 闘を思わずにおられませぬ。 近頃よく肉と霊との一致ということを申して、肉の生活の外に霊の生活は無いというようなことを聞く のですが、私はどうもそうは思えぬのであります。私はやはり霊と肉との間には永劫の争いが保たれてい るのではないかと思います。肉は霊の表現であるということはもちろん真理でありましょう。しかし、そ れは一枚の紙の裏表のように同じものの両面であるというような意味であったら、何も私共は霊などとい うことをことさらに言わなくとも、肉ならば肉だけでたくさんな訳ではありませぬか。私共が肉だけに満 足しておれないというのは、何かそこに肉と違った霊の世界があるからではなかろうかと思われます。私 の心持ちから申して見ますと、霊は絶えず肉に打ち勝とうと争うているので、その争いが霊の勝利に帰し た時、真の意義において肉は霊の表現となるのだと思います。 平常の私共の生命は、前の意味から申して決して霊の表現とは申されませぬ。それはやはり肉の勝利だ と思います。だから私共は、ここに霊の目醒めが必要であるのであります。私はこう申したからとて、強 ちに肉を卑しめて霊を偏讃する訳ではありません。霊と肉とどちらが尊いか、また値があるかというよう なことは、ただいまどちらにも決したくはありません。尊いとか卑しいとかいう問題は別として、私はた だ人生はこの二つの力の争い合うところに価値があるので、何れも一方だけでは生の成立を見ることが出 来ぬものだと思うのであります。けれども、私共自己の生命の欲求としては、肉の勝利を欲しませぬ。真 の生命はやはり霊の勝利を要求しつつあるのであります。全体、霊ということは肉に打ち勝たんとする力 そのものを申したのではないでしょうか。ですから肉を離れては霊は存在し得ないかと思われます。霊が 霊として存在するには、肉に対する不断の闘争、不断の勝利でなくてはなりますまい。ここに私は人生の 意義があるのだと思うのであります。 私は自我の生命とは、この霊の作用に外ならぬと思うのであります。肉がすなわち自我だと観る事ほど 人生にとりて矛盾なことはないと思います。自我を霊として見るということは、私共が生きる上にとりて 最も大切な事であります。常に肉に征服されつつある私共の生において最要の問題は、如何にして霊の闘 争力を最も多く獲得すべきかということであります。換言すれば、如何にして私共は最も完全に目醒めた る霊の闘争に生きることが出来るかということであります。私はこの霊を呼び醒まして、その霊をして不 断の闘争に打ち勝たしむるところの力を、如来心の信仰に得るのであります。ここに如来があるかないか、 またそんなものを信ぜなくともよいではないかというような議論を闘わす必要はありません。ただ私共は 如来を信ずることによりて、私共の霊が歓喜の戦闘を続け得るという事実だけ、それだけで十分でありま しょう。 私は昨日の日記にこう記しました。 「私は如来と離れられない。たとえそれが概念であっても、念仏であっても、またその外の何であっても よい。私達が本当の自己に蘇生して生の戦闘に勝利を与えてくださる唯一偉大の力であれば、それを私は 如来と呼ぶ。その外の如来は私の如来でない。私はただ斯様な力の下に、その恩寵の下に生きて行きた い」と。 生命の宗教 終 |