弘経大士宗師等 弘経の大士宗師等 拯済無辺極濁悪 無辺の極濁悪を拯済したもう 道俗時衆共同心 道俗時衆共に心を同じうして 唯可信斯高僧說 唯斯の高僧の説を信ずべし 共同心 これは正信偈の最後の四句でございますが、ここで親鸞聖人はお釈迦様から、凡そ二千 六百年後の今日まで、印度、中国、日本へと伝えられた阿弥陀様の御本願とそれを私共に 取り次いで下さった印度の龍樹、天親の二菩薩、中国の曇鸞、道綽、善導の各宗師と我が 国の源信、源空の両先達の御苦労を偲び、私共は出家たると在家たるとを問わず、皆心を 同じうして高僧方のみ教えを信ぜよとお勧め下さいました。 昔から伝統を重んずる社会では、師弟関係が大事にせられます。例えば大工、左官の様 な技能の世界でも、落語、漫才のような芸能界でも、師匠を大変大事にせられます。だか らと言ってお師匠さんが、弟子に手取り足取り、又口写しで教えられるかと言うと、中々 そうではないようです。師匠によっては、何にも教えずに技は盗め、見て覚えよと言われ るそうです。それは然し、師匠が教えることを惜しんでおられるのではありますまい。そ うした技術は体験しながら体得するより仕方がないのでしょう。懸命に見ておれば、又熱 心に聞いておれば、何時しか師匠の技が弟子の身についてくるものと思われます。知識は 言葉で伝えられるでしょうが、一番肝心な知恵はこうして伝えられるのではないでしょう か。何にも直接には教えてくれない師匠も、腹の底では弟子が一日も早く一人前に成長し てくれることを願っておられるのです。そうした師匠の願いが親心と呼ばれるもので、そ れが弟子を育てて行くのだと思われます。何にも教えてくれなかった師匠が、生涯に渡っ て師匠師匠と慕われるのも、この親心あればこそでございましょう。弟子は師匠のこの親 心に気付いた時、実は師匠の技が体得せられているのではないでしょうか。親心に気付く とは師匠と心が通じたということでしょう。心が通じ、共に心を同じうするということが 体験の世界の功徳であります。 私共は生きる為に欠く事の出来ない大事な事は、自分で体験しなければなりません。食 べる事、眠る事、排泄する事を人に代わって貰う事は出来ません。銘々が別々に体験しな がら、同じ体験をしたという心の通じた時、私共は満足を感じます。会食の喜びも、共同 生活の楽しみもそこにあるのではないでしょうか。私共は心が通じ、心を同じくする事が 幸せの条件であろうと思いますが、実はそれとは裏腹に自分一人で楽しもうとし、自分一 人抜きんでようといたします。私共は生まれ付き自分本位の根性から離れられません。本 当の幸せは自分を離れた時に味わえるのです。体験の中では自分はありません。食事の時 は唯「美味しい」があるだけです。私共は自分を振りかざしていては幸せを得ることは出 来ないのですが、だのに困り果てた時でも思わず発する一言は「どうしよう」という言葉 です。どうしようとは仕方が分からないけれど仕方が分かれば出来るという意味でござい ます。自分の無力を感じても尚且、何とか出来そうな自力の気分を脱する事の出来ぬのが、 私共の本性でございます。そうした自力の妄執を離れることの出来ぬ私共の為に、阿弥陀 様はお念仏を勧めて下さいます。然し、その念仏が「ハイそうですか」と素直に称えられ ぬのが、又私共の本性でございます。そうした事を仏様は充分に計算に入れて、お念仏を お勧め下さいます。中々念仏の出ない私自身に気付いた時、そうした私共をそのまま救っ てやりたいという、仏様の親心が気付かれます。その時私共は仏様に背を向けた罪の深さ と、それに逆比例した仏様のお慈悲の深さに、勿体ないという思いと共に思わずお念仏が 洩れ出るのでございます。これこそ仏様のおはからいでございます。これを信心と申しま す。私がお念仏を称えるのではなく、お念仏が自然に洩れ出て下さる、そこを無我の境地 と申していいのではありますまいか。無我の境地は体験の境地です。体験の境地には私は ありません。お経の最初の言葉「如是(にょぜ)」とは言葉以前の体験の境地から洩れ出る響きで ございましょう。 南無阿弥陀仏 平成六年四月 |