一、 生の歩み 幼少の時分には正月と言えばただ何となう面白く楽しかった。それが後になって何ともなくなり、少し人生の問題を考う るようになってからは、その中に一種の哀れな悲しい感を懐くようにさえなったのであります。それは新年という声の内に 自分の生命を刻むところの恐ろしい響きに触れるからで、私には齢ということが非常に嫌な感を惹起さしむるのでありまし た。また一つ年を重ねねばならぬということが破滅の淵に引きずられるように覚えて戦慄かずにはいられませんでした。私 は新年を迎うる毎にお前は死なねばならぬぞと言われているような心地がして実際嫌であった。ただいまでもやはりその感 はとれぬのであります。 けれど、私はそこに大いなる光を与えて頂いたことを感謝するのである。私は不思議にも人生が念仏の表現であることを 信ぜさして頂いて以来、悲しみの内に大いなる希望と歓喜とを味わうことが出来るのを非常にありがたく思うのであります。 一年の歳月、それは誠に短いには違いないが、その一年の間にはあらゆる人生の出来事が縮写せられてあるのである。そこ には春もあれば夏もある、秋もあれば冬もある。成功も失敗も生も死も、すべてはこの中において残りなく演ぜられるので ある。昨年一年間のことを反省して見ても、如何に思いがけなき出来事が生じているであろうか。畏くも先帝の御崩御、誠 忠なる乃木将軍の殉死、その他私一身に関係したる範囲について見ても、先日父よりの手紙によって知っただけでも、わず かここ数月の間に数人の驚くべき病死変死等が報ぜられてあるのである。病のために泣いた人もあった。流行病で逝った人 もあった。一夜にして心臓麻痺に襲われた人もあった。米搗き半に仆れた人もあった。数え来れば転変の世の実相、実に戦 かずにはおられぬのであります。かほどに激しい嵐の中を私は今無事に通りぬけて、ここにまた新しき春を迎えさして頂い た。不思議である。私は実に不思議だと思います。私は今日生き得たことが自分にとりて果たして仕合わせであるかどうか は知らない。けれど私は今生きているのである。それを私はただ不思議と思うのであります。しかして私はこの不思議の内 に感謝の念を催さずにおられぬのであります。 私はまた自分の内生活の如何を省みて過ぎた一年間の生を思う時、さらに一層の不可思議にうたれるのであります。何と いう惨めな浅ましい生活であったろうか。もとよりこの間には時に喜んだこともあった。尊き思いに満たされたこともあっ た。けれど、その九分の生活は、あらゆる欲情と虚偽と名利と嫉妬と怨恨と、それら煩悩の生活であった。たった一度も、 私のために苦しんでいる一人の父の心を慰むることすら出来なんだのである。それが何ということぞ、ただいまかかる境遇 の内にとにかくに一年を送りて新たな春を迎うることが出来たのである。尊き一年–またとかけがえのない尊き一年の歳 月を、私はかくのごとくして汚してしまった。それにもかかわらず、またさらに新しき一年は私に与えられたのである。私 はこの来る一年を如何にして過ごし得るかは知ることが出来ぬ。されど、よしそれが半年であっても、一月であっても、与 えられたことそのことに対して、私はただ不思議を感ぜずにおれぬのであります。 昔、覚如上人は、御往生の前年、すなわち八十四歳の御年の歳暮には一文の御貯えも無きため、越年の御用意が出来させ られずに困っていらせられたということである。その時に御弟子の方がやっとのことで十貫文とかの志を貰うて持参せら れたので、上人も非常に喜ばせられ、まず御仏前の御用意をなされて、残りの金を以てわずかの新酒を買い、それにて屠蘇 の御祝いを致され、ああ今年はよい年越しが出来たと言って喜ばせられたと聞いている。私は生まれて上人の流れを汲み、 その御恩徳の下に生活さして頂いている身でありながら、しかも上人を始め、宗祖聖人、その他多くの善知識の御恩徳によ りて与えられた尊き一生を、斯くばかり浅ましき罪の泥に汚したのである。それが何ぞや、勿体なくも事なく一年を過し得 て、今新たなる年を迎う。私は不思議と言わずにおられないのであります。これが御恩でなくて何でありましょう。私はど うしてもこの不可思議の生の上に、やる瀬ない大慈悲の如来の御心を拝せずにはおられないのであります。 とかく平生の生活にあっては、私共は御恩の生ということを忘れている。そしてただ人生の生活といった風な日暮を致し ている。けれど正月になると、あらゆる人生の重荷をしばし降ろして、自己の生にたちかえるのである。そこには名聞もなく 憂苦もなく、利欲を忘れ争闘を忘れて、ただ自己の生のみに熄うことが出来るのである。この時に当たって私共は静かに 自己の生を反省して味わわねばならぬ。殊に新年は一年の生の第一歩である。私共はこの一年をいかに送るべきか。蓮如上 人は明應二年正月元日に御前に参った勧修寺村の道徳に対して、「道徳はいくつになるぞ、道徳、念仏申さるべし」と仰せ られました。「道徳、念仏申さるべし」。何というありがたき御言葉でありましょうか。実に私共の生は念仏に支えられたる 生であります。念仏の外にどこに私の生がありましょう。全体、生命というものは、煩悩だけによっては決して持続さるべ きものではありませぬ。煩悩はむしろ生命を滅ぼそうとする力である。それゆえ生命が保たるるということは、すなわち御 慈悲を蒙っているという証拠なのであります。 私共は今、新年に当たってまず「御目出度う」と言う前に念仏を唱え、しかして来る一年をどうか御慈悲に任せつつ、念 仏の上に感謝の生活を辿るように致したいと思うのであります。 生の歩みはただ念仏によりて、光があるのであります。 |