二    願力に繋がる宿縁



 私は四五日前、一つのありがたいお話を聞きました。ある所に一人の若い嫁さんがおられた。大変万事に気がついていて、

誠にやさしく正直で、また舅 姑 に仕うること厚くありましたので、多くの人達から、誠に感心な嫁さんだと褒められて

いたそうです。ところが、ある人がこの嫁さんに「あなたはこちらのお父さんやお母さんにどう思って仕えています」と尋

ねますと、嫁さんは「私は真実自分の親のように思って仕えています」と答えました。それでその人も大変感心しまして

「それは立派な心掛けだ」と褒めました。その後、また他の一人の娘さんに向かいまして「あなたはお母さんをどう思って

います」と尋ねますと、この娘さんは「私は何とも思ってはおりません」と答えました。実際この娘さんは、別にお母さん

に対しましても、どうといってことさら孝養を尽くすという風も見えませんでした。ところがその後、大地震が起こりまし

て、今にも家が壊れそうになった時、先の嫁さんは第一番に一人で家を飛び出てしまいました。しかるに、かの「何とも

思ってはいない」と答えました娘さんは、いきなり母の所に飛んで参りまして「お母さん危ない、どうしよう」と言って抱

きつきましたそうです。

 話はこれだけでありますが、誠に面白い味わいがあるではありませんか。嫁さんが平生いかに真味の親のように思ってい

ましても、親でないものはやはり他人です。まさか大事な場合に臨むと、それが根底から壊れてしまいまして何の役にも立

ちませぬ。しかるに真実の親子になると、平生は何とも思っていませんでも、いよいよという時にそれが表れて参ります。

やはり、何事でも、自分で分別して拵えたものは駄目です。玩弄の刀はどんなに本当の刀のように見えていましても、それ

が物を切るという場合になると玩具では要に立ちません。どんなに錆びていても、そんな場合にはやはり真実の刀でなくて

はならぬ。そこが両方の価値の違っているところであります。

 親子の間は決して互いの分別思案で成り立つものではありません。言うに言われぬ神秘の力が、互いの胸底を結び付けて

いるのであります。言わば心を繋ぐ縁の糸に親子の情は通うているのであります。もちろん何とも思わぬのがよいという訳

ではないが、思う思わぬにかかわらず、親子の真情は自力の分別を離れて互いの間を結び付けているものだということを味

わわねばなりません。いかに真実の親のように思うても、どんなに大切に仕えても、もし心の底にやるせない親の慈愛が通

うていなかったなら、親子の至情は保たれているとは申されませぬ。たとえ何とも思わずとも、切るに切られぬ縁さえ繋

がっていて、絶えず通うている親子の誠がありさえすれば、親子はどこまでも親子であります。

 私共の信念にとりてもまた同じ味わいがあるように思います。ありがたく思うたからどうというのではない。嬉しうなっ

たで助かるという訳でもない。たとえ朝タに大悲を思いつめていることが出来ても、もしやその底に不断の如来の願心が流

れていてくださらなかったなら、到底造悪の凡夫が念仏の証果に達するということは出来ぬのであります。ただ願力不思議

の御力があればこそ、仏とも法とも知らなんだ私が、この機のなりに救うて頂く仕合わせを得ることが出来るのであります。

もとより私共は、かかるありがたい御慈悲に気づかせて頂いた以上、どこどこまでも進んでその広大深重の大悲を味わうよ

うに致したい。出来得るかぎり如来の思し召しに従うて報謝の生活が辿りたい。けれども、それは私の往生の為ではない。

往生は偏に願力の不思議に助けらるるばかりであります。久遠劫来切るに切られぬ大悲の御誠が加わらせられてあったれば

こそ、罪悪の私を真実自分の一人児のごとくにあわれみましましたる親様の切ない御心があったればこそ、私のような横着

な奴が摂取不捨の利益を蒙ることが出来たのであります。私共は決して決してどんなことがあっても、この願力に繋がる宿

縁を忘れてはなりませぬ。

 蓮如上人は明應三年正月元日に勧修寺村の道徳に対して、自力他力の味わいを御示しくだされて、「自力の念仏と言うは、

念仏多く申して仏にまいらせ、このまをしたる功徳にて仏のたすけ給わんずるように思うて唱うるなり。他力と言うは弥陀

をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。その後念仏申すは、御たすけありたるありがたさありがたさ

と思う心をよろこびて、南無阿弥陀仏に自力を加えざる心なり」と仰せられました。「弥陀をたのむ」とは願力の不思議に

すがることであります。「やがて」とは、すでに用意せられたる本願の約束によることを申されたのであります。この本願

の御約束は十劫以来の御約束であって、私共の分別や思案で変わることのない金剛不壊のものがらである。それゆえに、た

とえどんなことがあっても、これさえ変わることのない以上、如来と私との間には常に親子の関係が繋がっている。それだ

から、私共は平生自分の心の如何に関せず、すでにただ親様だということを知らせて頂いただけで、最後の場合にはいつで

もこの大悲の懐にすがらずにはおられぬのであります。かの娘さんが大地震の折に我が身を忘れて「お母さん」と言って縋

り付いたように、自分の分別を離れ己を忘れて、親心の内に溶け込んで行くのであります。私は信念の味わいはただこの

刹那の上に遺憾なく味わうことが出来ると思います。