三 御慈悲 世の中に、尊いものは種々ある。有難いものはたくさんある。けれども、私共にとって最も感謝すべき尊い有難いものは何であ るかと申したなら、仏の御慈悲より外にはなかろうと思います。私共は、久遠劫の昔から今日まで、一日としてこの御慈悲の外に 眠ったこともなく、その恩寵に預からなんだこととてはないのであるが、しかも今日までたった一度も、その恩寵に感謝する思い の起こらざるのみか、かかる尊き御慈悲の在すということすら知らずに迷って来たのであります。誠にただいまから考えて見ます と、御恩知らずの我が身であったことがひしひしと胸にこたえて、慚愧の戦慄に堪えぬ次第であります。皆さん、どうかこれから、 知らなんだ昔は致し方もありませぬが、御慈悲が御慈悲と知られた上からは、お互いにこの広大な御恩に対して報謝の生活を 続けようではありませぬか。 ところが、世の中には、かような有難い御慈悲に包まれておりながら、まだ自分の浅はかなことが知られず、御慈悲の広大なこ とに気付かずして、徒に幻のような浮世のことにのみ心を奪われて暮らしている人々がたくさんにあるのであります。私共が、常 に御慈悲、御慈悲と申しておりますと、これ等の人々から時々、御慈悲とはどんなものであるかという御尋ねを受けることであり ます。これについて私は、畏れ多いことではありますが、次のように味わっているのであります。 第一に、御慈悲は空気のようなものである。私共は、寒気を防ぐに衣服が大切であるということは知っている。雨露を凌ぐに家 屋が大事であるということは承知している。また生命を繋ぐに食物が必要であるということも心得ている。けれども、衣服よりも 家屋よりも食物よりも、もっと常に恩恵を蒙っているものがあるということを忘れている。それは何であるかと申しますと、空気 であります。私共は、衣服や家屋や食物の為に心を煩わすということがあるが、未だ空気の為に心配したという覚えはないのであ る。しかも生まれ出でてから今日まで、一分時一秒時の間でも、この空気の恵みを受けなんだ日とては無いのであります。衣服や 家屋や食物や、これ等のものは働くと働かないとによって、得られることもあり得られぬこともあり、したがって人々によって多 少の差異を生ずるものであるが、空気に至っては、高貴な人でも卑賤い人でも、働く人も怠ける人も、男でも女でも、老人でも子 供でも、皆一様に呼吸によって身を養うことが出来るようになっております。また空気というものは、始終、私共の周囲を取り巻 いておって、寒暖の度を調和して私共を保護していながら、しかも私共の仕事の邪魔もせず、色も示さず、香も放たず、私共が物 を見るにも、少しも障りとならず、また、秤で量って見ると、ずいぶん驚くほど重いものでありますが、私共には少しもその重量 を感ぜしめないように、内外から護っていてくれるのであります。かように重宝な尊いものであるけれども、私共は、ほとんどそ の存在をすら感ぜずに、何よりも無価値ものとして忘れ去っているのであります。 私は、御慈悲がちょうどこんなものであろうかと思います。久遠の昔から、常に私共を取り巻いて、いつでも心の口を開けて吸 い込みさえすれば、私共に生命を与えてやろうと待っていてくださるのでありますけれど、私共は始終御慈悲が在すということす ら打ち忘れて、口を噤んでいては種々な浮世のことに齷齪して、煩悩の為に狂わされているのであります。誠に浅ましいことと言 わねばなりませぬ。 第二に御慈悲は太陽の光のようなものである。西洋の読本の中にある話だそうですが、ある教師が一人の生徒に向かって「お日 様とお月様とはどちらが偉いか」と尋ねました時、生徒は直ぐに答えて申しますには、「それは先生、お月様が偉いです」「何故で すか」と尋ねますと、「お月様は夜暗い時に照らしてくださいますけれど、お日様は明るい時に照らしてくださいますから」と申 したそうです。なるほど、もっともな話であります。昔から月見の宴は開かれますが、太陽を称讚たものは少ないのであります。 あえてこの生徒ばかりでありませぬ。多くの人は皆一様に太陽の御恩を感ぜずに暮らしているのであります。「今晩は月夜で結構 です」とは、折々聞くところでありますが、さて「今日も、お日様のお蔭で仕事が出来た」と喜ぶ人は一人も無いのであります。 けれども、よくよく考えて見ますと、月の光も星の光もすべて光という光は、皆太陽の光を受けていないものは無いのであります。 太陽が明るい時に出ると思ったのは、まだ太陽の姿が私共の目に映らない前からこの世を照らしていてくださったからである。太 陽は昼の間照らすばかりではありませぬ。夜は月に星にランプの光に、種々に光を分かって私共の暗きを照らしてくださるのであ ります。実に私共が暗き夜の恐れから逃れて毎日毎日を安心して仕事の出来るのは、この太陽のお蔭を蒙っているから なの であります。 仏の御慈悲が、またちょうどこれと同じように、常に種々の形を透して、私共に光を与え、力を与えていてくださってあるので あります。未だ心の闇がとれかねて、無明の夜に彷徨うている人々でも、親の上に、兄弟の上に、夫婦の上に、朋友の上に、愛と か信とか種々な形をもって、たとえわずかでも御慈悲を味わうことの出来るのは、全くこの御光が一切の上に輝いていてくださっ てあるからなのであります。私共は、一度信の眼を開いて見ますと、実に思いがけなき所にまで行き渡っている御慈悲であるとい うことが味わわれるのであります。 最早、私共は、どうあっても御慈悲の外には一歩も踏み出すことの出来ぬように定められてある幸運児である。私共は、ただこ の御慈悲を信ずると信ぜぬとによって、すなわちこの幸運を感ずると感ぜないとによって、心の平和と憂悶とが分かれるのであり ます。それであるから、どうかお互いに、この御慈悲に照らされ、御慈悲に養われて一生を過ごすように心懸けようではありませ ぬか。 |