四   仏心本位の生活



 人間はどうしてこうまで我儘なのでしょう。何でも自分の気に合わぬことがあれば、すぐに世の中が間違ってでもいるように

言って、自分勝手な不平を並べる。人生は果たして私共の思い通りになるものとして出来ているのであろうか。何でも私共は、世

の中は人間の思惑通りになるものだという前提を置いた上で、すべてを判断して行っておるようである。誰しも、根底にはきっと

そんなような考えを懐いているに相違ないと思う。判然意識的にそうだとまでは思っていないにしても、そんな風な心持ちが基礎

となりて生活していることだけは確かである。が、しかし、この考えは、私共が人生に処して行く上においては、まず第一に深く

考察して見なければならぬ大切な点だと思う。人生がもし私共の思い通りになるものとしたら、私共は誠に仕合わせで、何も苦し

んだり、悲しんだりすることは要るまいと思わるるが、実はかえって大いなる迷惑なことが起こって来るかも知れぬのである。私

共の考えというのが、実はそううまく調和の出来るものでないので、各人銘々がそれぞれ境遇に応じて別々な考えを懐いているの

であるから、人心を本位として人生を眺めて行くということは、元々無理な行き方である。世の中は人間のままにならぬ所で初め

てそれが秩序も乱れず、調和も保たれているのではなかろうか。もしそうだとすれば、私共は自分のままにならぬ人生に対して、

かえって幸福を感じて行かねばならぬ訳である。私は、宗教はこの点において私共の精神を蘇生らせるものであると信じているの

であります。人心本位の無理な生活を捨てて仏心本位の生活に入る、ここに宗教の生活は開かれて来るのであると思います。人生

の「ままならぬ幸福」というところに、普遍の慈愛が認められる。この慈愛の心を宇宙人生の秘奥に感じ得た時、仏心の親心を味

わうことが出来る。親心がすでに味わわれるようになると、自ずから人生ながらの上に大安慰の境地が開かれることになる。ここ

に宗教の天地が存在しているのである。

 誰しも「ままならぬ」ということは、一般に不仕合わせなことだと決め込んでいるが、少し考えて来ると、我儘ほど恐るべきも

ままになって行く所で、一家の幸福は増進して行くものである。子供が我儘を通して親の心に逆らう時、一家は破滅の悲運に陥る。

のはなくて、ままにならぬのがかえって私共の仕合わせであることが解る。一家の内は子供の思いのままにならずして親の思いの

それゆえに子供は何処までも親心の上に立ちて各自の本分を勤めるように致さねばならぬ。人生もまたこれと同じである。私共が

我儘心を捨てて親心の上に立ち、常に如来の大悲を仰いで、ままならぬ人生の上に自己の幸福を認めて行くところに、そこに有難

き光明の生活が得られるのであります。私共が仏法領の内に養われているということは、実に宗教生活の土台として、しばらくも

忘れてならぬ大切な点であると思います。

 かつて聞いた話であるが、江州のあるお寺の坊守に厚信な方がおられた。何処と申して別に変わったところも無いが、不思議に

も一村を感化して、このお寺に出入りするすべての人々をして如来の御慈悲を仰がしめたと申すことである。それについてただ一

つこの坊守が他の人と違っていたというのは、この寺に来る商人や乞食に対して金銭を与うる時に、何にも言わぬがただ一言「こ

のお金は私の所有ではない。ただいま如来様から頂いてお前に上げるのだから、私に礼は要らぬが、どうか、寺の門を出る前に、

本堂の前へ行って頭をちょっと下げるだけでよいから、お礼を申し上げて行ってくれよ」と、いつもその事だけは忘れず申される。

それが御縁となって、遂に全村の人々皆が御恩の中の生活ということに気付いて御慈悲を喜ぶようになったと申すことである。誠

に有難い話である。百万言の説法をするより、誰でもこの世に生まれて持たずに済まぬ金銭を通して、如来の大悲を伝えてくだ

さった坊守のこの一言は、遥かに信念の真精神を表し尽くしていると思うのであります。仏物によって養われ行く、これほど有難

いことがあろうか。私共は皆この仕合わせの中にありながら、みだりに不満を訴えて、仏心に逆らいつつあるのである。何という

愚かな申し訳のない恐ろしい奴であろうか。かかる非道の私をも如来は今に捨て給わずして、絶えず大悲の擁護を垂れ給うてある

ことを思えば、私はもうただただ縮み入るより外はありませぬ。三河の七三郎は三度の食事毎に手を合わして、「ああ御約束が違

います、南無阿弥陀仏」と繰り返して頂いたと申すことであるが、私共自らの胸の内を眺めた上に大悲の恩寵を仰ぐ時には、実に

もう人生のすべてが一々過分の仕合わせでないものはありませぬ。「ああ御約束が違います」と言った七三郎の言葉は、実に深く

味わわねばならぬ言葉であります。

 私共は、何でもこの世が自分の因縁のみで出来上がっているように思う人もあるが、それは自分の真価が十分に分かっておらぬ

からである。もし真に自分の真価が分かって参ると、「地獄は一定住家ぞかし」の祖師聖人の御言葉が現実の上にひしひしと味わ

われて来るようになる。地獄は一定住家だとは、ただに死んでから後の話ではない。現にただいま人生というような有難い所に生

まれ出ているはずのない私だという自己現実についての信念の表白である。

 私共の真価から申せば、人生は決して不仕合わせな所ではない。実に有難い所なのである。地獄一定の私共が現在人生という境

界に生まれさして頂いておるのは、私共の後に大いなる御慈悲の親心が加わりていてくだされてあればこそである。「まず三悪道

を離れて人間に生まるること大きなるよろこびなり」。現実の恩寵は決して思想の上にのみ起こる問題ではない。

 私共は自己生活の事実の上に、常に仏心の大悲を味わいつつ、一歩一歩感謝報恩の道を辿るように心掛けねばなりませぬ。