五 親 幼にして父に訣れた私の友は、ただ母の力によりて学業を修むることが出来たのであった。私は先年この友の家を 訪ねてその母なる人と語った時、子に対する親の慈愛について種々のことを聞かされて涙に咽んだのであります。母 なる人の申さるるには、 「私はあの子が東京に出ている間、どのくらい案じ暮らしたか分かりませぬ。毎月一定の学資を送るのですら、女の 力では容易な事ではなかったのであります。それに折々は特別な入用があるからといっては五円十円の金を余分に送 るようにと申して来るのです。そんな時には夜の目も眠られず心配して、ようやくのことでその金を調えることが出 来て、さていよいよ送るという時になると、またいろいろの事が案じられて、その金を送って善いか悪いか。もしつ まらぬことに費うのではないか。毎月一定の資金は欠かさず送っているのだから、そうそう余分に入用のあるはずが ない。これはやはり半分だけ送って、半分だけは残して置いた方がよかろう。学問などする間は少しは不自由なくら いにさせて置かなくては為にならぬ。と、そう思いまして、その中を半分だけ送金致してやります。そうすると今度 はまたその裏からいろいろな心配が湧いて参って、いやいや、もし本当に必要があるのなら、送らずに置いてはさぞ 困るであろう。もしや送らなかったために、他人から借りて費うようなことをしたり、あるいはそれが為に不義理な ことでも起こすようなことになると一大事である。どうせあの子の為に心配した金であって見れば、残して置いたと てそれがどうということもないのだから、一層のこと送ってしまおう。よしや贅沢なことに費おうとも、あの子が費 うのだもの、それでよいではないか。送らずにおいて要らぬ心配をするより、一層送ってしまった方が安心だと、そ う思ってはとうとう残りの金を送ってしまうのでありました。今思って見ると、実に親ほど愚かなものはありませ ん …… 」 私はこの話を聞いて、ああ親なればこそと泣かずにはおられなかったのである。「たとえ我が子が贅沢なことに費お うとも、同じことなら他人の迷惑にならぬよう、親の金で贅沢がさせたい」という、その深いやる瀬のない慈愛の心 には、心あるもの誰が感ぜずにおられよう。実に親の慈悲には底がないのである。私はそこに全然道理を没したる無 限の涙を味わうたのであります。 その後、私はこのことを他の道友に話しましたところ、道友は涙と共にまた自分の父親のことを話してくれました。 「私にもちょうどそれと同じようなことがありました。私はずいぶん思い切った放蕩をしたのですが、それが為に一 時は父から送金を止められて大いに困ったけれど、それでも迷い込んだ放蕩はやめられず種々なことをして自活の道 をたて、金が出来てはそれで遊蕩を続けていたのでありました。しかるにその後、また父から送金して貰うことにな りましたので、もう自活する必要もなくなり、しばらくは本心に帰って勉強していましたが、やはり腐った根性は失 せ切らずに再び芽を吐いて、またまた放蕩に陥ったのであります。ところが父は、初めの間はなかなか十分に金を 送ってくれませんでしたが、後には私が言ってやるだけそっくり送ってくれるようになりました。私は不思議に思っ ていましたが、後で帰って母に聞けば、ある日、父は新聞を読んでいましたが、その新聞に、ある道楽息子が金のな いために他人の金を盗んで監獄に送られたことが出ていたそうであります。父はそれを読んでから急に心が変わって、 それからは母に命じて私が申してよこしただけは少しも減ぜずに送金致すようと申しますので、母も実はその急に変 わったことを怪しんで父に尋ねたそうですが、その時父はただ、もし他人の金でも盗むようなことがあってはならぬ から、と申したそうであります。私はそれを聞いて、今まで自分が悪かったことに気付いて泣いたのでありました。 私の今日は全く父のこの慈愛の賜物であったのであります」 ああ何という尊い慈悲でありましょう。私共は皆この慈悲の内に生きて来たのであります。宗教はただここである。 如来の本願もこれより外はないのであります。私共が今日かように浮世の快楽に耽溺して全く放逸の生活を辿らして 頂いているのも、皆これ如来の大悲が絶えさせられぬからである。同じ迷うなら親の懐で迷わしてやりたい、いかに 無慚な生活でも親はその子を捨てず護ろうというのが大悲の親心である。親がなくてどうして放蕩がなされよう。恩 を忘れた日暮も恩に包まれているからそれが出来るのである。忘恩もすなわち恩寵である。私共はどうしても大悲の 外に出ることは出来ませぬ。蓮如上人も「たとえ地獄に落ちんと思うとも、弥陀如来の願力の不思議としてこれをふ さぎ給うなり」と仰せられたが、実に私共は迷うも悟るも共に大悲の懐にあるのである。ここに至っては何とも最早 申すべき言葉がないのであります。ただ御名を唱えて感謝し奉るの外はありませぬ。 |