七   気狂



 今日のことであった。私の心は気狂の心とほとんど薄紙一枚隔たったところまでになっているように思うと私が申

したことから、いろいろ狂人についての話が出た。その時、稲葉先生は私に「もうそんなことを言うのがすでに狂気

になっているのだ」と申された。なるほどそうかも知れぬと思う。全体狂気というものはどんなものかと思ってみる。

一定の心理状態に住しておることが出来ずして、絶えずグラグラと変わるような心を狂人と言うのではなかろうか。

かつて村上先生は、常人の心は文章になっているが、狂人の心は断片的なものであると申されたことを記憶している。

つまり、狂人は始終一貫したる思想を持っことが出来ずして、その時々に違った思想を懐くものだという意味であろ

うと思う。それゆえ、その断片の一つを取って見れば、決して間違ったことも何にもないのであるが、前後繋ぎ合わ

して見ると、その間の意味が貫徹しないのである。こんな心を称して狂気だと言うのであろう。もしそうだとすれば、

私はやはり狂気の仲間だ。私の心ほど変化の多いものはない。青くなったり赤くなったり、始終変わっているのであ

る。昨日思ったことが壊れて、今日はまた新たな考えが湧く。こうしなければならぬと思うかと見れば、いやそんな

ことをするには及ばぬと、すぐ打ち消す思いが起こる。私の心はちょっとも要領を得ないのである。

 時には如何にありがたい話を聞いても、また痛切な言葉に接しても、少しも何の感激も起こらず、あたかも石の人

形かなんぞのように冷やかであるかと思えば、ふとしたことにとめどもなく涙がこみ上げて来て、どうしても泣かず

におれないことがある。泣いて御慈悲を歓んでいられる方を見ても、自分には何ともないこともあるが、ちょっとし

た告白を聞いても胸を衝かれて涙が湧くことがある。そんな時には理窟も何もない。ただ胸の中の傷口にひよっと物

が触ったとでもいったような具合に、何ということなしに深い感激を覚ゆるのである。

 こんな調子で、私はどうしても一定の性情を保ちていることが出来ぬのであります。それで信仰上においても、真

に御慈悲がありがたく感ぜられる時と、そうでない時とがある。そして真に感ぜられる時といったら極めて少ないけ

れども、まず始終その両極端の間をグラグラと変わりつつ動いているのであります。

 ところが、かように動揺常なき心でいながら、それで世の中の尺度となろうというのだからおかしいではありませ

んか。当てにならぬ心だと思いながら、それですべてを計って行こうとする。無理な話である。無理ではあるが、そ

うしなければ自分の立場が壊れてしまうように思われて、どうしてもじっとしておられない。何とか自分の心に解釈

をつけて、その上に立ちて、すべてをそこに引きつけてゆかなければ生きて行けないように思っている。泣いている

時には、泣かないようなものは駄目だとしてしまって、泣いているのが尊いことのように考え、泣けない時には、何

もそう泣いてばかりいたって仕方がないじゃないか、泣くのはそう続くものじゃない、泣かずに泰然と安住して行く

のが望ましいことである、と澄ましかえっている。歓べる時には歓べるのをうれしと思い、歓べない時には歓べない

のに理窟をつけている。どう考えても、本気の沙汰とは思えません。やはり私は気狂の仲間である。

 以上は自己肯定の方面だけについて申したのであるが、私はまた自己否定の方面においても同じように矛盾を繰り

返しています。甲を得れば甲を厭い、乙を得れば乙を厭う。自己を肯定すると同時に常に自己を否定する。他人に対

しては自己を肯定し、自己に対しては自己を否定する。どちらが自分の本意だやら自分で自分が解らなくなる。

私はどうしても一方にのみ安住していることの出来ぬものであります。同じ流れに、同じ方向に進むということは、

私にはとても出来そうにありません。私は自己を弁護するということには余程執着が深い方であるが、しかし、ただ

得意になっては到底おれぬ男である。要するに訳の分からぬ性格が私の性格である。真実の肯定も出来ねば真実の否

定もなし得ない煮え切らぬ心を持って絶えずいろいろな道をうろついている奴である。私の思うこと私の感ずること

などはつまり、何の当てにもならぬのであります。

 私の悲哀はここにあるのである。他人に気狂と言われるのは忍べもしよう、我慢も出来ようが、自分が自分で気狂

と思わねばならぬというは、こんな哀れなことがありましょうか。人間の唯一の苦痛は捨てられるということであり

ます。それも自分に価値があると思うからではありましょうが、自己の価値を認め得ずに人は生きておれるものでは

ありません。たとえ少しでも自分の価値を認むればこそ乞食も生きているのであります。もし自己が真に価値なきも

のであると知ったら、どうして生存しておられましょう。ここに真の苦痛があるのであります。

 幸いに如来の本願が在せばこそ、他力の大悲が聞き得られたればこそ、気が狂っていても暮らして行けるのである。

「機の扱いをやめて、ただ不思議の本願を仰げ」とは、私のような者に対する唯一の御化導であると思います。私は

香樹院師の仰せられた「得たと思うは得ぬなり。得ぬと思うはなお得ぬなり。そんなことではない」との御言葉に

よってようやく生かして頂くことが出来るのであります。