八 内心の猫 アツテイック、フィロソファーであったかと思います。或に二階に住んでいる哲学者が、自分の部屋の窓を通して見らるる周囲 の人生について種々と観察していたが、ある時、いつものように窓際の屋根の上にたくさんの雀がやって来て楽しそうに遊んでい るので、彼はいつもする通り、御盆の上に穀類を載せて、窓際に運んで行って、少しづつ撒き散らしてやりました。いつもは雀等 は喜んでその撒かれた穀粒を拾っては嬉しそうに食べるのでありました。彼はいつもこうして雀と友達になっていました。ところ がその日はどうしたものか、雀共は一向に近寄って来ない。彼は不思議に思って、また少し、今度は雀等のおる近くに振り撒いて やりました。雀共はちょっとよろこんでそれを啄もうとしますが、直ぐに何か物に怯えたような様子でパッと散って逃げてしまい ます。哲学者は考えました。考えたけれどさっぱり訳がわかりませぬ。いつもあれほど親しんでいたものが今日にかぎってどうし てかように逃げるのであろうか。何が恐いのだ。自分の態度は別に平生と違っていようとも思えぬ。やはりいつものように自分は やさしい親切な心で餌を与えているのである。どうもおかしいではないか。こう思って彼は自分の周囲に一通り注意の眼を注いで と彼はしばらく考え込んでいましたが、どうしても解らぬ。何遍撒いて見ても同じことである。彼は鳥類の愚かさを嘲り、また腹 見ました。見たけれど、そこには何にも見当たりませぬ。雀の恐がるほどのものは別に何にもないようであります。さて不思議だ 立たしくも思いました。そうして、じっと雀共のすることを見ていますと、自分の前に画せられている天上屋根の影の所に妙なも のが動いているのが見当たりました。はてなと思ってじっと注視していますと、雀が撒かれた穀粒を食べようとすると、その影が 不思議にチョコチョコと動くのであります。すると雀はその影に怯えてパッと逃げて散ってしまいます。彼はようやく合点が行っ て、頭上の屋根瓦の上を覗いて見ますと、さてこそ、そこに一匹の猫がいて、雀が穀粒を食べようとする毎に、右手を挙げて雀を 掴もうとするのであります。しかし、下には人間がいるので、さすがに猫先生も飛び降りて来るほどの勇気はありませぬ。これで 初めて一切の事情が解ったのであります。 哲学者はこの出来事に対して、人生的の解釈を下して、人生のあらゆる紛糾せる事件はすべてこの忘れられたる一隅にその根源 を有しているのであると言っていたように記憶していますが、私は今、自分自身の生活の上にとって見て、私の生活の全体がいつ もこの見えざる猫の仕業によって呪われているように思うのであります。この猫は外界に隠れている猫ではなく、私の内心に奥深 く潜んでいる我の姿したる恐ろしき猫であります。私はこの猫を、多くの時、自分の真我のように可愛がって、いつかこの猫に騙 されては、飛んだ失敗を演じているのであります。私の全生活はほとんどこの猫に操られたる生活であると思います。私は自我を 助けんとして常に自我を殺しています。自我創造の要求の上に自我破壊を続けています。どうか心行くほどの満足な生活を致した い、寸分の隙もない充実したる自我を刹那たりとも表現して見たいと、衷心常に願求しているにもかかわらず、自分の実生活の有 様はほとんどかような欲求とは何等の交渉もない、ノロノロとした、だらしない、緩慢な、眠った生活に陥っているのであります。 私の現在の悲しみは、ただ自分がもっと真面目になりたいということであります。真剣に切実な態度に立つことが出来ないという こと、ここに言うべからざる悲哀があるのであります。私はどうしてこんなに不真面目な奴であるだろうかと、それを思うと自分 で自分が嫌になってしまいます。友は私に、私の現在の生活が仕合わせ過ぎるからだと言ってくれます。私もあるいはそうかとも 思いますが、しかし私はたとえどんな悲境に陥っても、私はとても全我を引っ提げて立つほどの真面目にはなり得なかろうとも思 います。もし私が現実の生活に泣くようなことがあっても、それは破壊されたる自我の痛みに泣くので、真の自我に目覚めて泣く のではあるまいと思われます。やはり私は猫に呪われているようです。 要するに、私は到底内心の怪猫の手から全然逃れることは出来ないだろうと思います。私はこの怪猫が何物であるかということ をすら明白と言うことが出来ませぬ。またそれが果たして悪いものであるか、善いものであるかということも分からぬのでありま す。が、ただ私はこの怪猫に操られて不安動揺の生を活きているのだということの上に解きがたい謎にぶつかりて苦しんでいるの であります。私はどうかしてこの謎を解きたいとあせって考えますけれど、それは到底不可解に終わるのであります。エジプトの 伝説によれば、人頭獅子身のスフィンクスの謎を解き得ないものは、皆スフィンクスのために殺されてしまうのだということであ りますが、私もやはりこの自我の謎を解き得ないために、自我を叫びつつ遂に自我に滅びて行くのではありますまいか。こう思う と私は、真の人生の悲惨を感ずるのであります。 けれど私には–それは私が今日までに薫ぜられた伝習の気分であるかも知れぬが、もしそうであったら、私はその点において 過去の伝習に感謝する––その悲惨なる自我の生の底に何だか大いなる不可思議の大悲力を感ぜずにおれぬのであります。私は欺 かれたる観念だと言われても、自分にはどうもそれを否定することが出来ませぬ。私は不可解のまま、醜き生のまま、苦しき痛々 しき自我そのものに徹して、そこに不思議の存在を信ぜずにおられませぬ。私はただこの御力に縋りて、言い難き生命の威力を感 ずるのであります。私はただこの御力に縋りつくところに、そこだけに初めて自分の真我が表現れ得たかのように思います。すべ ての私の生活は皆、かの怪猫の欺騙に根ざされているのに、ただこの大悲力の信仰のみが真我の叫びであるように思うのでありま す。したがって、私の真我の生は、ただこの如来を信ずるということの上にのみ成就せられるものであると思います。そして私は、 自分がこの離れ難き大信を与えられた仕合わせを感謝せずにおられませぬ。 |