九   真生活の態度



 私共は常に何かを求めています。求むるものの種類はいろいろあろうけれど、要するに何かを求めていることは事実であります。

私共の生活は求むるということを離れては成り立ち得ないようにも思われます。食を求むるか、財を求むるか、名を求むるか、安

きを求むるか、それが何であっても、求むることがなければ生存はないのだと言ってもよいほどに、求むるという事と生活という

事とが密に結びついているのであります。

 求むることが正しいか正しくないかは別問題としても、とにかく求めていることだけは事実であります。そしてそれは到底私共

の生活にとりては離れることも捨てることも出来ないものである。私共はただ求めることの上に生きているのである。そして私の

今の問題もまた、その求めることの上にあるのであります。

 日常の生活から言えば、私共の求めるところは実に種々たくさんにあるのであります。私共は種々なものを追っかけてそれを得

ようと焦っているのであります。そしてただそういうことに日々の生活が費やされてしまっているのであります。私はあえて求め

ることを止めようとは思わない。否、ますます真に求めて行きたいのである。だがしかし、その何物を求むべきかということにな

ると、私はただ茫然としてしまうのであります。

 人として真に求むべきものは何であろうか。私が真に得なければならないものは何であろうか。私は徒に多くを望んで追い疲ら

されることが、何の意味もなき悲しむべきことのように思われてなりませぬ。私は私の日常の生活において求めているようなもの

が、一つとして真の私の要求に値するものだということが感ぜられないのであります。私にはきっと私の求むべきものがあるに違

いない。私が真に生きるために、私の向わねばならない唯一のものがなくてはならぬはずであります。私はそれを求めたい。否、

求める前にまずそれを知りたいのです。

 自分にとりて求むべき唯一なものというのは、取りも直さず自分にとりて最も大切なものなのである。これさえあれば世界のす

べてを捨てても構わない、何物にも代えられぬ唯一の尊いもの、そういうものが自分にとりて真に求むべきものである。しかるに、

それが私共に知られてない以上、私共は全然生きる道を失っているものと言わねばなりませぬ。私は人間生活の悲しみはここにあ

るのだと思います。

 私は彼の石川五右衛門が、七条河原において釜の中で煮殺されるとき、可愛い一人の子息の五郎市を自分と同じく苦しませるの

が不憫でたまらず、長い間両手で捧げていたのであったが、次第に釜の下が煮え立って最早自分が堪えられぬようになったときに

は、いつの間にか自分を忘れて五郎市を煮湯の中に押し込み、そしてその上に自分が乗り上がったということを聞きましたが、今

この話を道徳上の意味は別として、私はこの最後の時の五右衛門のように、すべてを忘れてただ自分の生命一つに向かって驀進す

るような生活の態度の上に立ちて見たいと思うのであります。あの五右衛門が、自分は苦しんでも息子の苦しみが救いたいと思っ

ていた間は、まだ自分の真生命の要求に触れていなかったのである。彼はまだ真に自分が求むべき唯一のものを持っていなかった

のである。しかるに彼は、いよいよ足の下が焼けてもう堪らないようになった時、初めて自分の唯一なものに触れたのであった。

恐らくこの時の五右衛門には、全世界も要はなかったでありましょう。我が子さえ捨てて顧みぬというのですから、彼にとりては

ただ自分の身だけが残ったので、その他のものは一切が消滅してしまったのであります。

 勿論この時の五右衛門には要求の自覚はなかったでしょう。こんな場合にはもう自覚の必要などはありませんから。ただ要求の

ままに進んで行くだけであります。私はもし真の生活の上にこんな態度が得られるものであったら、どんなに仕合わせであろうと

思うのであります。しかしそれは到底不可能のことでありましょう。それで私共の生活にはただ自覚が必要なのであります。私共

は真に自分が求むべき唯一なものの何であるかが知られて、その上に自己の全分の生活を築き上ぐることが出来たら、それで満足

すべきだと思います。私は宗教の本義もその外にはあるまいと思う。後生の一大事とはすなわち、この自己の生命の根本要求を言

い表したものではありますまいか。

 私は法然上人が申された彼の「たとえ法然は死刑に処せられても、ないし身を八裂にせられても、念仏をやめることは出来ぬ」

との御言葉の中に、法然聖人の生活が如何に輝かしいものであったかを思うのであります。聖人の「念仏為本」は実にかくのごと

き自己の全分の上に立った「念仏為本」であったのであります。「たとえ死刑に処せられても」というその御言葉が聖人の全生活

全宗教を語っているのであります。「ただ念仏さえ唱えれば助かる」というような余裕のある念仏でなくて、「念仏より外に生くべ

き法がない」という念仏であったのであります。私共はただ聖人の念仏を口伝えに受け込むのではありません。それは全く無意義

なことであります。昔はかような人があったのに、親鸞聖人はその後に出て大いにその点の誤りを指摘せられたのでありました。

私共は私共の念仏を見出さねばなりませぬ。「たとえ死んでも」と言うほどに自分にとりて重要な唯一絶対のものを自覚しなけれ

ばなりませぬ。そしてその上に自分の全生活を築かねばなりませぬ。時々思い出して喜んでいるくらいなら、それは一種の娯楽と

何の異なりもありますまい。私共は全生活を挙げて救わるべき道を求めねばなりません。

 「たとえ死刑に処せられても」という一語、何という力強い言葉でありましょう。私はここに真生活真宗教の全分が表現せられて

あると思うのであります。