十    自己問題



 全体、人間の生活は常に裸体の生活ではなくて、衣服を着ての生活であります。それが身体についてばかりではなく、

心においてもやはりそうであります。名誉とか財産とか地位とか事業とか、その他親族知己等に至るまで、すべて私共

の外囲の事象で自分に関係のあるものならば、きっとそれが心の上に纏わり付いて自性の相を覆い隠しているものであ

ります。私共が誰でも多少自己の心霊の痛みを感じていながら、しかも真実に自分の真相を認識することが出来ないの

は、すべてこの心の覆いに欺かれているからであります。私共は、ちょうど婦人が自分の生命よりも着物に執着するよ

うに、常にこれ等の外囲に心を奪われていて、少しも心霊の一大事ということに心つかずにいる。実に気の毒な憐れな

ものである。私共はたとえそんなものにどれほど執着していましても、それ等のものはただの一つも真に自分に付いて

いるものではなくて、みんな一度は剥ぎ取られてしまわねばならぬものであります。どんなに口で立派なことを言って

いる人でも、真にこの自己の心霊の一大事ということに気づいている人は誠に少ない。否、ほとんど無いと申してもよ

いくらいであります。真実にこの一大事ということに気付いていたら、そこに寸分の余裕のあるはずはないのである。

一大事に気づけば気づくほど、他力を仰ぐ信念に帰するより外はないのであります。

 私は子供の折から常にお説教などで、浄土真宗の教えは臨終をとりつめて聴聞をせよということを聞いていました。

この臨終をとりつめるということも、ただに死後の未来を考えて見よというばかりの意味ではなくて、現在自分の霊性

の一大事に気づくようにという意味であるように伺われます。私共は何と申しても、死の淵に臨むまでは自分の一大事

ということが味わわれぬものであります。一大事というは、もうその他にかけ替えのない唯一の大事に接触した折の言

葉で、平生あれも大事これも大事とたくさんな大事を持っている奴が、いよいよ死ぬるという場合に至ると、すべて人

生の一切事が奪い去らるる。親にも子にも別れねばならぬ。妻にも兄弟にも離れねばならぬ。財産も名誉も捨ててしま

わねばならぬ。そうなって見ると、残るところのものは何にもない。ただ我一人である。自己の心霊ただ一つである。

この心霊一つが右へ往くか左へ往くかは自己の全生命の問題で、一歩の間違いは永劫の間違いである。この場合、微塵

ほどの過ちがあっても、それがそのまま未来際を尽くしての運命となるのだから、最早自力の範囲を超越しておる。私

共はこの大事ということの度合いが深くなれば深くなるほど、自分で手がつけられなくなります。もうこれ一枚より外

にかけ替えのない貴重な紙をさしつけられて、それに何か絵でも画いてくれと頼まれたり、またはこれを仕損じたら幾

万円出しても他に得られないという品物をあてがわれた場合に、私共は容易にそれを引き受くるという気にはなれませ

ぬ。なるべくならばそんな大切なものには手をつけずに済ましたい。今、私共は霊性の問題についてあれやこれやと理

窟をつけて見たり、あるいはどうのこうのといろいろ信念の内容を論じて見たりしているのは、つまり自己の問題が切

迫したる一大事の問題となっていないからではありますまいか。真実かけがえのない一大事の問題であったならば、到

底自力の穿鑿をやってはいられないはずであります。一つ間違っても、もう取り返しのつかぬことだとしたら、全然他

力に任せてしまうより外はない。親鸞聖人が「往生ほどの一大事、凡夫のはからうべきことにあらず。ただに凡夫にか

ぎらず補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからうベきにあらず。まして凡夫の浅智をや。かえすがえすも

如来の御誓いに任せ奉るべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者とは言うなり」と仰せられた。かの「往生ほ

どの一大事」という御言葉が深く味わうべき言葉であると思います。「往生ほどの一大事」という、そこに他力に帰す

るより外に道のない他力安心の根底があるのである。私共が信念の問題にいろいろ心を悩ましているのも、つまりはこ

の一大事ということが解っていないからで、真に「往生ほどの一大事」ということに気がついていたら、どうして自力

の手が出されよう。聖人は私共にこのことを気づかせんが為に、等覚補処の弥勒菩薩を引き合いに出して示してくださ

れたのであります。これほどの一大事であればこそ、如来は他力救済の御誓願を立ててくだされたのである。それであ

るから私共はただこの御誓いを信じて、全然自己霊性の問題を他力の大悲にお任せ致すより外はないのであります。

 「誓い」ということが他力安心の根底であります。ただに如来にお任せするのでない。お誓いにお任せするのである。

誓いを聞いて信ぜられぬようなものならば、何を聞いても信ぜらるべきものでない。そんな人は永劫信ずべきものを持

たぬ人である。一大事ということがわかり、誓願ということを聞いて、どうして他力に安住せずにおられましょう。掴

んだ蔓はすでに切れてしまっているではありませんか。たとえわずかな細い糸にもせよ、まだ切れずに繋がっている間

は、「助けるぞよ」「安心せよ」との呼び声を聞いても、それが真実か虚偽かを問い返して見る余裕もあろうが、もう

すでに生命の綱が切れてしまった以上は、落ちて砕くるばかりである。その時、世に幾万人の親切な人があっても、そ

れは今の自分に何の関係もない人々である。すでに綱が切れてしまって今にも千丈の谷底に落ちて砕けねばならぬとい

う場合には、ただその時呼び掛けてくださった人の声、ただそれだけが力ではないでしょうか。その余裕のない切迫つ

まった場合に、「安心せよ、助けてやるぞ」との声が聞こえたら、もうそれが誠か否かを問い返す余裕もない。ただそ

の聞いたまま、呼び声そのままが頼みであり力でなくてはなりませぬ。しかもその呼び声が如来の御誓いの御呼び声で

あって見れば、御声の中にすでにもう安心の力が籠ってある。そこに何の疑う余地もない。他力信念は極めて簡単な教

えであります。ただ「助けるぞよ」これだけより外にはないのであります。これが宗教の全体であります。南無阿弥陀

仏の名号がすなわちそれである。「助ける」という誓いの呼び声だけに満足の出来ないのは、自分の一大事となってい

ないからであります。聞即信ということは、実にこの切迫したる場合の信念を顕し給うた教えであると思います。聞こ

えたまま、それが信念の全体でなくてはなりませぬ。この上の一切のことは皆、私共の余裕から生み出すところのもの

であります。私共の刹那々々の生活は、常にこの切迫したる一大事の上に立っているのであります。それゆえ、私共の

信念は常にこの簡単な「助けるぞよ」の呼び声だけに打ち凭るる聞即信の信念でなくてはなりませぬ。すなわち、その

お呼び声の聞こえたままが腹一杯の「御助け候へ」の思いであります。これが全生命を打ち込んでの他力宗教の信念で

あると私は思います。