十一 一人の自覚 四 その一人の私は汚れています。罪に傷ついています。誰もこの罪を癒してくれるものはありませぬ。この汚れを洗ってく れるものはありませぬ。理想の教えは自ら進むべきを説いている。しかし私の実際は到底一歩も進むことが出来ぬのであり ます。孔子の一生は高かったに違いない。キリストの一生も尊かったことは事実である。その他古来多くの聖賢は皆私に理 想の影を示してくれられてある。現に近くはただいま申した乃木将軍の一生のごとき、実に光ある一生であった。けれど私 はかような方々の尊厳な生に接すれば接するほど、ただただ自己の実相の浅ましさを知るのみであります。私は実に無力で ある。無能である。罪の子である。しかしてただ一人である。真の孤独である。私はただただ淋しさを感ずるのであります。 誰でもあれ私の心の上に温かき情けの心を注いでくださる方が欲しいのであります。一言にして言えば、ただ温かい胸に懐 かれて暮らしたいというのが私の中心の叫びであります。 これはあえて私ばかりではない。誰でも真に孤独の生に接した時には、等しく自己の中心より聞くことの出来る内心の声 であろうと思います。 五 かように私は家族の上について心配する折に、一種言い知れぬ淋しさを感じて泣きたい心地になるのでありますが、ただ その時、私は如来を思うことによって初めて永遠の安慰に帰らして頂くのであります。自己の実相に泣いた私は、ここにそ の浅ましき罪に汚れた私自身が如何にして生活しつつあるかに気づいた時、私は自己の尊さに驚かざるを得ないのでありま す。私はただ私だけだと思っていたに、実は私自身が親であり兄弟であり妻であり朋友であったのであります。私は現に多 くの親切と情けとの上に生活しつつあるのであります。この親切とこの情けとの外に私の生命はあり得ないのであります。 私は実に恩寵の結晶であったのであります。恩の外に私はなかったのであります。誰か真実に孤独の生を辿り得るものがあ りましょうか。絶対の一人はただ死であります。しかも私共の生命にしてもし永遠のものであるならば、私共は永劫恩寵の 中にある訳であります。生は決して孤独であり得なかったのであります。ここに私は如来を認めずにおられませぬ。私の生 をして生たらしむるものがすなわち如来であります。如来の御慈悲を離れて私の生はない。私と如来とは永劫決して離るる ことの出来ぬのであります。私の生は如来に懐かれたる生である。それゆえにこそ罪ということも明らかに知られるのであ ります。すなわち、かくばかり尊き生をそれと知らずに徒に自我の迷執にひかれて、さまざまの妄想邪念を起こして生命を 穢しつつあった。これがすなわち罪である。かくて私共は親や兄弟や師友や妻やを汚しつつあるばかりでなく、永劫の御親 たる如来の御慈悲を傷つけつつあったのであります。何たる申し訳のないことでありましょうか。 六 信仰は実に自己に対する驚きであると思います。淋しい浅ましいと泣いた自己が、そのまま多くの恩恵の塊であったこと に気づいて、感謝と懺悔とにかきくるる一念の味わいであると思います。一人であると思った私は、この一念の味わいによ りて、同時に一切に蘇生ることが出来たのであります。今まで自分の外に認めていた親や兄弟が、ここに至りては私自身の 中に生きているのであります。最早私は一人ではない。親も私の中に見ることが出来る。兄弟も私の中に見ることが出来る。 妻も朋友も皆私一人の中に存在しているのである。しかして、それ等の全体が皆ことごとく如来の大悲願心の内に溶かされ てしまって、永遠にわたって私の生命を持続しつつあるのであります。ああ何という有難いことでありましょうか。 二人であると思っているとき私共は実は一人であって、真実の一人になったとき初めて二人になることが出来るのであり ます。迷いの世は何処までも矛盾である。矛盾は矛盾の理によりて解決せられねばならぬ。一人の自覚は一切の自覚である。 もし私共家族の銘々が真に一人の自覚に達することが出来たならば、初めてその家族は共に手を取ることが出来ようが、も しやいつまでも世相に執して、徒に二人である三人であるという気持ちの上に生活していたならば、到底永遠に孤独の生活 から脱することは出来ぬのであります。 |