十二 人生の酔いから覚めて 昔ギリシャの七賢人はアポロの神に何か知識の供え物を献納せんとて互いに相集まりて相談の結果、人間最上 の知識として『爾自らを知れ』という一句を得たので、これが遂にデルフォイの神殿に額として掲げらるること になったのだということであります。が、これは今日といえども常に新しく私共の生活上に繰り返さるべき尊き 格言であると思います。 『自分を知る』ということは決して楽しいことではありませぬ。自己を知るは苦悩の始めであります。人は自己 を忘れている間が一番楽な時で、自己が明らかになればなるほど苦悩は増して来るのである。自覚は決して安慰 の道ではありませぬ。自覚の度が進めば進むほど、悲哀の度もまた増して来ます。最も楽なのは無自覚者である と思います。古来すべての聖賢が如何に堪え難い苦悩を経験しているかということを知ったならば、世に自覚者 ほど悲惨なものは無いということも分かるでありましょう。 けれども、人間の尊むべき点はこの苦にあるのであります。私共は無意義な安逸よりも意義ある苦悩を遥かに 多く求めています。ちょっと考うると、人は皆苦を厭うて楽をのみ願うているように思われますが、実際につい て究めて見ると、決して私共は単に楽ばかりを望んでいるのではありませぬ。楽に死するよりもむしろ苦に生き たいというのが人間の衷心の要求ではありますまいか。無為なる豚の生活は決して願わしい生活ではありませぬ。 むしろ苦しくとも人は己を知って涙の生に生き得ることが尊いことであると思います。 今年の春四月頃でありました。嵯峨の停車場で、大方嵐山の花見の帰りでもあったのでしょう、たいへん酒に 酔って四五名の客が私の乗ってる汽車の中に乗り込んで参りました。やれ歌うやら踊るやら、あたり構わず自分 達だけ好い気になって面白そうに騒ぐので、他の乗客は皆口には言わねど厭な気持ちを顔に表してじっと我慢し ているのでした。私は始めは堪えられぬ厭な気持ちが致しました。けれどそのうち、私はこんなことを思いまし た。なぜ人は酒飲みを厭がるんだろう。じっとして己を欺いて静かにしている人達よりも、ああして何の偽ると ころもなく自己を打ち出して思うままに歌ったりなんかしておる人達の方が遥かに罪が無いではないか。よしや 両方とも偽りが無いとしたところで、歌いたい人が歌い、歌いたくない人が歌わずにおるのなら何方も同じで、 あえて一方を責めて一方を褒むる理由は無いではないか。自分が歌いたくないからといって歌っている人を厭に 思うのは、あまり我儘勝手な考えではあるまいか。しかし、そう思って再び眺めて見ても、如何にも取り乱した 姿勢で騒いでいるのを見ると、やはり妙に蔑んだ思いが湧いて来るのです。それでまた考えました。そして私は その真に触れたように思ったのであります。そうだ、我々があの姿を見て厭に思うのは、決して単に歌っている からとか騒いでいるからとかいうのではなくて、それはあの全く自己を取り失っている姿を見せつけられるのが 自分にとりて堪えられないからである。私共にとりては自ら自分を忘れるということは愉快なことであるが、自 己を忘れたる相を他から見せられることは誠に苦しいことである。それによりて踏み躙られたる自己の相が目に つくからである。 あえて酒の上のみに限った訳ではない。すべて自己を取り失うということは私共には厭な感を引き起こすもの であります。それゆえ、その原因が何であるにしても、すべて酔うということは、自己を忘れているという点に おいて愚かに見ゆるものであります。 世の中には種々な意味において酔える人が多いようです。財産に酔うている人、職業に酔うている人、名誉に 酔うている人、学問に酔うている人、快楽の追求に酔うている人、その他道徳に、宗教に、社会に、人生に、私 共はかくのごときものに酔うている時、いつでも自己を忘れているのであります。かくのごときは決して真の生 命の道ではありませぬ。私共はまず、あらゆるものから醒めなければなりませぬ。醒めて真実の自己に帰り、た だそれを唯一の立脚地としてまっしぐらに生命の本源に突き入らねばなりませぬ。そこに真実の如来に抱かれる のであります。 自己に覚めたい。常に如何なる場合にも自己を把住していたい。真に自己を愛するの心から一切に接して行き たい。そこに人生の救済があり、そこに真の宗教があると私は信ずるのであります。 |