十三     赤裸々の我に返って



 宗教に入って信仰を得ようとする人が、初めから御助けだの御救いだのを当てにして法を聞くということは、

非常に注意しなければならぬことであります。助けられる救われるということを初めから心に定めておいて、そ

の上にいろいろと心を苦しめたとて、決して真実の宗教が味わわれるはずはないのであります。宗教の出発点は

自分が丸の赤裸々となって真面目に自己及び人生に対して行くということでなくてはなりませぬ。神も仏もすべ

て失ってしまって、ただ自分が自分だけになって孤独の生の上に誠実の心で進んで行くところに、宗教は生まれ

て来るものであると私は思います。

 私共はいつでも自分の実際ということは忘れて、ただ仏の御慈悲だとか御助けの御謂れだとか、そうした信仰

上の訳合ばかりを聞いて、それを自分の心に当て嵌めて見て、合えば有難いと喜び、合わねば信仰が得られぬと

て悲しんでいますが、そんなものは何れも真の宗教ではないのであります。

 信仰ということを初めから人生に安心することだと思うから、飛んだ間違いが生ずるのであります。安心する

心は隠居する心である。私共は隠居してしまっては生きた事実に接して行くことは出来ませぬ。隠居した人の取

り扱うものはすべて皆骨董であります。生きた事実はただ生きた人生に立って働いている人のみに与えらるべき

ものであります。私共は御慈悲に安心することよりも、まず自分の現実に目を覚ますことに骨折らねばなりませ

ぬ。如来の御助けをたのむ前に、まず自分自身を深く味わって見なければなりませぬ。

 私共は救わるることよりも、かえって衝き落とさるることによりて真に生きるのであります。今日まで宗教は

私共を救うてくれるものだと思った考えのために、どれほど私共は自分の生命を失って来たかわかりませぬ。何

事も救わるる助けらるるという考えがあったばかりに、如来も本願も名号も御慈悲も、皆それが一種の骨董物と

なってしまって、何等の生きた生命をもそれから汲み取ることが出来なかったのであります。曽無一善だの、極

悪深重だの、地獄一定だのということを口にしながら、それはただ助かる為のものとのみなっていて、御助けや

御救いの手を離れた真実の地獄一定ということが味わえなかったのであります。こんなことでどうして真実の信

仰と申されましょう。私共はまず一切の教えから離れて、真に自分一人の立場にかえって味わって見なければな

りませぬ。これで助かったと安心する心は、やがて如来を捨つる心であります。往生一定と決め込んだ心は、如

来を殺す心であります。私共は如来を掴んだと思った時、如来を殺しています。御慈悲をたのんだと思った時に、

御慈悲を捨てています。御慈悲も信仰もすべて皆失ってしまって、真の孤独に泣いて行くところに、初めて如来

は顕れたまうのであります。私共は徒に安心していてはなりませぬ。落ち着いていてはなりませぬ。どうしても

安心の出来ぬ、少しも落ち着きのとれぬ、悲しい惨めな人生に深く深く分け入って、苦しみながら泣きながら一

歩一歩生活の道を辿って行くところに、真実の宗教は味わわれるものであります。私はここに初めて親鸞聖人や

その他の聖賢の内的生命の泉を汲み取ることが出来ると思うのであります。