十六 生の価値 昔、インドにある一人の比丘があって、独り清閑なる所にあって修行をしていました。ところが毎夜泥 棒が襲うて参りますので、戸を閉めて静かに行を修していました。もうやって来る時分だと思っていると、 案のごとくドンドンと戸を叩く者がある。さては泥棒が来たなと思って黙っていると、頻りに戸を激しく 叩いて、ここを開けよと申します。比丘は仕方がないから、それでは開けてやるが、怖ろしいから後を向 いてしっかり手を懐に入れていてくださいと申しました。泥棒はその言う通りになって戸を開けるのを 待っていました。すると比丘は戸を開けて直ぐに泥棒に飛びつき、一条の縄を以て泥棒を縛ってしまいま した。泥棒は騙されたと思って悔しがりましたが仕方がない、とうとう縛られて内へ引っ張り込まれ、柱 のところへ動きの出来ぬように括り付けられてしまいました。さてどうされることかと心配していますと、 比丘は大きな棒を持って来て、お前は我が帰依しているだけの法に帰依したら許してやろうと申しますか ら、泥棒は帰依致しますと答えました。すると比丘は大きな声で帰依仏と言って殴りました。泥棒も驚き のあまり覚えず帰依仏と申しました。比丘はまた棒を振り上げて、今度は帰依法と言って一層ひどく殴り ました。泥棒はまた帰依法と叫びました。そして思いますには、この比丘は幾つの帰依を持っているので あろうか、もうこの上に帰依があっては自分の生命は絶たれてしまわねばならぬ。もうとても助かる道は 無いと思っていますと、比丘はまた棒を振り上げて、帰依僧と言って殴りました。泥棒はまた帰依僧と申 しましたが、もうほとんど生きている気は致しませんでした。今度はいよいよ死なねばならぬ。もうとて もこの上の帰依を堪うることは出来ないと思って覚悟していますと、比丘は一向殴る様子が見えませぬか ら、もう帰依はそれでしまいであるかと尋ねますと、仏の教えは三宝に帰依することであると比丘は答え ました。そこで泥棒は非常に歓びまして、「ああこれで助かった。仏は実に偉い御方である。今自分がこ んな目に遇うことをすでに御存知であって、もし四宝に帰依せよと教えておいたならば、とても自分が助 かることが出来ぬと知って、幸いに帰三宝の教えを遺してくだされた。自分は仏のこの帰三宝で助かるこ とが出来たのである。何という尊い御方であるだろう」と感じまして、遂に比丘によりて仏の教えに帰し、 阿羅漢の証を開いたと申すことであります。 これは馬鳴菩薩が書き遺してくだされた話であって、誠にお伽話のようなことでありますが、しかし何 だかそこに深い教えがあるように思われるのであります。 すべての物の意義とか価値とか申すことは、外界の事象の上にあるのではなく、それが自分の生命に関 係するところに味わわれるものであります。何事でも、自分に直接関係が生じて来なければ価値は認めら れぬものであります。自分に関係のあることならば、どんな事でも何等かの意味においてそれは尊いもの であるに違いありませぬ。この点において私共は、自分の上に起こったこと、並びに自分の周囲の事象に ついて、深く尊敬を払わねばならぬと思います。この世の事で一つとして自分の生命に関係のないものは ありませぬ。生きておるということが願わしいことならば、生かして頂いておることは有難いことではあ りませぬか。自分は死んだ方がよいと申す方がありますが、それは死んだ方がよいのではない。死んだ方 がというのがやはり他の満足な生を求めているのであります。私共には真正の意義においての生の呪詛は あり得ないと思います。生きるということは私共の究竟の願望であって、一切の不満もすべてはそこから 湧き出でているのであります。真に生きたいと思えばこそ現在の生に不満も感ずるのである。だから死に たいなどというのは全く嘘であります。死にたいというのは生活状態に対する離脱の要求に外ならぬので あります。私共は一切に有難い意義を見出すことが出来さえすれば、そこに生命の光を認むることが出来 る。しかして、この光は自己に触るるすべてのものの上に輝いているのであります。しかし、それを味わ い得るか否かは私共の態度如何にあることである。私共はどうか一切時に自分の生命の上に立ってすべて を味わって行きたいものであります。 |