十七     自己拡張と自己犠牲



 私共の生活において、私共自身に関係を持ったすべてのものは、皆それが私共自身でなければなりませぬ。自

己に非ざるものは自己に対しては全く無関係なもので、何の益にもたたぬものであります。例えば道具や何かに

ついて見ても、私共がそれを使用する場合には、必ずそれをある意味において自分自身の中に取り込んでいるの

で、すなわちそれ等の道具が自分自らになっているのであります。

 また多くの人々の上について見ても、その中で最も多く私共に深い関係を持ったものは、家族や親族や朋友で

ありますが、この家族や親族や朋友というのは、皆一面私自らであるのであります。もしそれが私自身になって

いないものであったら、たとえどんなに接近していましても、つまりそれは全くの他人に外ならぬので、私自身

の生命に関しては何等の力をも持ってはいないのであります。苟も私の生命に少しの力でも有しているものなら

ば、必ずそれは私自身と同一になっているものでなくてはなりませぬ。

 理窟の上からは、一切万物は皆自己に外ならぬと申しますが、実際生活上では私共はその中で自分と自分でな

いものとを区別しているのであります。仏教ではこの自分という考えを身見と申しますが、これをまた二つに分

かって我見と我所見と致します。我見は「我あり」と思う心で、我所見とは「我が所有」すなわち「我がもの」

と思う一切の心を指して言ったのであります。私共はこの我見と我所見との二つによりて自己を形作りているの

で、この二つを結びつけるものはすなわち愛であります。

 愛するということは相手を自己の内に引き入れることで、また自分が相手となるのだと言うことが出来ます。

すなわち愛は一種の自己拡張であります。愛によりて二つの者が一つの自己となるのであります。親が子を愛す

るのは親が子を自己と見ることで、その他、兄弟、夫婦、朋友の愛等、皆それと同じ意味であります。私共はこ

の拡げられたる自己の中に生活して行くのであります。

 通常私共は、自分と言えば、直ちに一個の肉体を持った一個体のことだと思っているのですが、これは非常な

間違いで、もしその考えで押して行くと、極端な個人主義になりまして、その為、遂に生存を滅ぼしてしまわね

ばならぬようなことになるのであります。釈尊が殊に世俗の我見に反対して無我の教えを垂れ給うたのはその為

であります。私共はこの小なる我見から脱して、もっと大きな我の中に没入しなければなりませぬ。だからこの

小さい我見から見ると、愛によっての自己拡張は、すなわちまた一面自己犠牲だとも言うことが出来るのであり

ます。それは人生生活上最も大切なことで、この意によりて初めて人生の一切事が解決せられ得るのであります。

 宗教において如来の御心というのもまたこれと同じ訳で、観経には仏心者大慈悲是と申してありますが、大慈

悲とはすなわち大愛のことであって、如来の自己拡張自己犠牲であります。本願には「たとえ我れ仏を得んに

十方の衆生 …… 」と呼び掛けてありますが、この十方衆生ということがすなわち仏の大慈悲を表したものであり

ます。仏が十方衆生と申されたのは、仏が十方衆生を以て直ちに自己とし、自己がそのまま十方衆生となってそ

の本願を発表せられたのであります。だからして、仏の本願はすなわち衆生の本願であり、衆生の本願がそのま

ま仏の本願であったのであります。『大経』に「衆生を視ること自己のごとし」とあるのは、この如来の大慈悲

を明らかにした御言葉だと味わわれます。文字の上には「ごとし」と書いてあるけれども、如来御自身の上では

「衆生が直ちに自己なり」ということであります。

 信仰の立脚地はここでなくてはならぬと思います。如来と我と別立したものでは、とても真の救済に接するこ

とは出来ませぬ。如来と我と二つにしてしかも一つ、一つにしてしかも二つなるところに機法不二仏凡一体の

妙旨があるのであります。自己の外に如来を見る者は、真の如来を拝する者ではありませぬ。また自己がすなわ

ち如来なりと称して、ただ心の弥陀を主張する人も、真の如来を見る者ではありませぬ。自己の中に如来を認め、

如来と自己との一つなるを味わいながら、しかも如来と自己との対立に生きる人でなければ、真の信仰に入るこ

とは出来ませぬ。

 愛は二つを一つにすることによって真の二つを成立致します。信もまたその通りであります。