十八 まことの生命力 私は他人と相対して話を致している時に、同じ畳の上にわずかに数尺を隔たって座っていながら、どうしても 先方の人と自分との間に超ゆることの出来ない高い堅固な隔壁があって、互いに精神の抱擁が出来ないことの 焦燥を感ずることがあります。なぜ人間はもっと心と心とが相接近することが出来ないのだろう。せめて一度 でもよいから精神上の握手を取り交わして見たい。けれどそれは永久に不可能である。私は自分の友に対しては 殊にそれを深く感ずるのであります。折角互いに結ばり合うて友情を持続するのなら、全然相互に心と心とが融 け合うて、いつでも一つ思いに通うていたい。泣く時も笑う時も同じように一人の者が泣いたり笑うたりするよ うにありたい。こんな心持ちで友に接するためか、友と相会し、また相思う時に、誠に堪えられない不足の情に 打たれるのであります。けれど、それなら自分が友の為に真に泣くことが出来るかと言えば、それは出来ない。 すれば、やはり友もその通りであろう。こう思うと、求むる私が無理であったということに気付いて参ります。 そして気づくと共に、その淋しさは一層深く心に浸み入るのであります。かくて私は世の一切の人に対して永久 に孤独であると思うと、実に堪えられない気持ちに襲わるるのであります。 一人で生まれて来たものはやはり一人で行かねばならぬのでしょうか。そして一人で生きるということが出来 るものでしょうか。私はどうしても友を求めずにおられない。どこどこまでも私を知り尽くしていてくれる友が 欲しい。私には、友を求むる心がそのまま私自身が生きようとする欲求であるのであります。 けれど私は思います。今自分が知られようとする心は、それはどんな心であろうか。ここに私は自分というも のを初めて精細に調べて見るのであります。何ということであろう。私は驚きました。今まで自分だと思うてい たものが、全然自分とは違った他所から這入って来たものばかりで飾り立てられているのであります。私の肉体 は無論のこと、思想も感情も観念も、何もかも本当の自分のものというものは一つもない。こんなものを知られ てどうしよう。私は知って頂くべき何物も持っていない。何を知られるのであるか。こう思うと私はただ呆然と してしまうのであります。 私はまず私から究めて見なければなりませぬ。私とは全体どんなものであろうか。近頃はやかましく誰も自我 だ自我だと申しますが、水面に浮かぶ泡沫のようなものを固執して自我だと尊重しているのだと、何だか頼りな いような気も致します。言葉だけは如何にも立派な新しい匂いに満ちた力のあるものであっても、内容は頗る貧 弱であるようにも思われます。私共はもう理性に欺かれたくないと等しく、感情にも騙されたくはありません。 外界の慣習を逃れた私共は、内心の慣習からも逃れて見なくてはなりますまい。世界も人生も、自己の一切をも すべて打ち捨ててしまって見たら、そこに何が残るでありましょうか。生!そうです、ただ純粋に無色の生!何 にも混じりもののない、ただ生という一事実、それだけであります。 実に不思議です。私は今、この生の表現という唯一の事実に無限の力を感得するのであります。それは自我な どという言葉を以て呼ぶことの出来ぬほど深い幽玄なものであります。私は今、ちょうど湧き出づる泉の上に 立っているような気が致します。私の心の底には、今は絶えずこの不可思議力が湧き返っていることを感ずるの であります。私はここに真の生命に接します。それは私の生命でありて同時に私を超越したる御力であります。 私にはもう罪ということはなくなりました。私はただこの御力の表現の上に生きて行くのであります。私は今ま で、この御力の表現に蓋をしていました。それは誤られたる私というものの為に、この御力に触るることが出来 なかったからであります。 私はこの御力を如来と呼びます。如来という言葉は真にふさわしき言葉であります。それは如是来現という意 であるからであります。古来の解釈にしたがって「如より来生す」と訓んでもよいと思います。 もう知られたいの欲求も必要でなくなりました。一度この大生命力に接した上は、一切は新しく私に与えられ てあるからであります。私は今、釈尊の御言葉を借りて「奇なる哉、奇なる哉、一切の衆生ことごとく如来の 智慧徳相を具す」と叫びたいのであります。 |