十九     生命の叫び



五



 宗教と申しますと、何か別に特別な道があるように思うている方があるかも知れませぬが、私は宗教は

つまり生命そのものの道だと信じているのであります。道徳でも宗教でも、それが私の行くべき道である

以上、つまりそれは私の生命の道でなくてはなりませぬ。南無阿弥陀仏というは、私の真生命の全的発表

に外ならぬのであります。古来この六字を機法の二つに分けて、南無というは帰命ということで「たすけ

給え」ということ、阿弥陀仏というは「たのむものを助くる」という如来の御慈悲であると、かように釈

して、これを機法一体の六字だと申すことでありますが、機法一体ということはつまり機と法とが一つだ

ということで、「たのむ心」と「たすくる御慈悲」とが一体にして離れたものでないと申すのであります。

さらに言葉を換えて申して見ますれば、「たのむ心」というは「たすくる心」の表現であるということで

あります。「たのむ」と言えば、特別に私共の心にそうした思念を起こすことででもあるように思われま

すが、そんなことさらに起こされた思念など、何の益に立つものでありましょう。これはやはり私共の真

生命の向上せんとする力を顕し示したものに外ならぬのであります。極めて平易な言葉で言って見れば、

私共が真に生きて行きたいという思いの真の発表がすなわちこの南無ということなのであります。しかし

てこの南無がすなわちまた直ちに阿弥陀仏ということであって、この南無の外に阿弥陀仏は無いと言うの

であります。「たすけ給え」という生命の叫びは、「助くる」という如来の大悲心の表現であって、私共の

生命力はその根底が直ちに如来の大生命力に繋がっていると申すのであります。私はここに実に言うべか

らざる深遠なる意義が籠められてあることを味わうのであります。「たとえ死刑に処せられ候とも」とま

で仰せられた法然上人の御言葉が、実にこの生命の大威力の発表であったことを味わうと共に、「弥陀の

五劫思惟の本願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」と仰せられた親鷥聖人が、如何に

この生命の本源に尽くせぬ感謝を味わい給いしかを思うて、胸躍るのであります。要するに真の生命に生

き得ることの外に宗教はないのであります。