十九     生命の叫び



六



 私共は往々人生と自己との衝突矛盾を感じて、苦悩に沈むことがあります。社会と個人とが一致調和しないで、

遂に妥協的生活が世を渡る唯一の方便道であることを嘆ずるような悲観に陥ることがあります。この世はままな

らぬ浮世である。自己に忠なる生活は到底なし能わざるところである。そこでこの世を無事に渡ろうとするには、

どうしても自分を一部捨てねばならぬ。自分の生命はもとより大切であるには違いないが、しかし生きて行く上

にはやはり社会に順応して行かなくてはならぬ。そこで生命に忠なることと、社会生活ということとは到底一致

しない人生の二面であって、私共はこの両面を都合よく相持して行くことが必要である。こうした考えは多くの

人の心の上に懐かれている思想であって、私共も往々こんな考えに悩まされることがあるのでありますが、これ

はよく味わうて見なければならぬことだと思います。果たして生命はそれほど生活と調和し得ないものでありま

しょうか。私は決してそうではなかろうと思います。これはまだ生命の真義に味致し得ないので、生命と生活と

は決して相離れて考え得べからざるもので、私共が生活の上にいろいろな難問に衝き当たって苦しむのは、か

えって多くはこの生命から離れているが為ではありますまいか。宗教の上でもよく信念と生活とを別々に考えて

おる人があるようでありますが、これもやはり同じ誤謬に陥っているのだと思います。もし私共にして真に自己

の生命を自覚して、その生命の本然の叫びに自己の全分を打ち任せて行くことが出来たなら、その時こそ真実に

意義ある生活が得られて、すべての生活に光あらしむることが出来るのであります。如来の勅命というも本願の

大悲というも、皆それは私共にこの真生命に還ることを勧むる大生命の呼び声であるのであります。南無阿弥陀

仏の外に私共の生くべき生命はないのである。南無阿弥陀仏は如来の久遠の大悲心であって、それはまた同時に

私の久遠の生命であったのであります。この生命は私の魂の底からむくむくと湧き上がって来る生命である。絶

えず私の胸底から湧き出でて一切を滋潤せんとしつつある霊の泉である。私共はこの泉を遮ってはならぬ。湧く

がごとく湧かしめて、そこに不尽の甘露味を味わいつつ感謝法悦の生活に猛進する外はないのであります。念仏

は実にその生活の全的発表の声である。全生命の凱歌である。私共はただここに初めて真の生活を味わうことが

出来るのであります。