二十    念仏の宗教



 私はこの頃新しく念仏の意義を味わうことが出来たのを嬉しく思っています。念仏為本の宗教は、ただいまでは誰も珍しがって

味わうほどの人もないようでありますが、これは実に尊い人生至極の宗教であると思います。こんな宗教が世の中に、しかも我が

日本に宣言し唱導せられてあったということは、誠に人生にとりてこの上もなき歓びであるのであります。

 念仏と言えば、広義に解すればもとより身口意の三業にわたっているのでありますが、まず宣言せられた表面の一応の意義から

申せば、口に唱うる唱名のことであります。私は法然上人がこの口唱の唱名念仏を根本として真人生の宗教を鼓吹せられたことに、

一層深い意義を味わって感謝に堪えないのであります。「ただ南無阿弥陀仏と申せば疑いなく往生するぞと思いとりて申す外、別

の仔細候わず」。何たる不可思議な宣言でありましょう。こんなことが道理や理窟で解るものでありましょうか。私共の思想の天

地では、こんな言葉の理解は到底許されぬのであります。それが仏の本願であるからだとか、人間の力で救済が得られぬからだと

か申したところで、それが何の解釈になりましょう。少しも説明にはなっていないではありませんか。ただ解釈せられざるものを

解釈せられざるものに押しつけたままであって、不可思議の言葉は依然として不可思議なままに残っているのであります。

 念仏は解釈すべきものではありませぬ。それは説明以上のものであります。ウパニシャッドで言う唵のように、思想以上の神秘

境で実在を有する真実なるものがすなわちこの念仏であります。それは真実の如来であって、またそれは真実の私であります。私

の真の魂であります。この魂は一度私共がそれに目醒めた時には、私自身の生の上に表現れずにはいないもので、私共の生活はた

だその魂の上に立って、その魂を表現し生かして行くところに意義があるのであります。私共が真に生くべき真実の天地がすなわ

ち念仏なのであります。法然上人が「この世のすぐべきようは念仏の申されんように過ぐべし」と申されたのは、この人生の真実

境を顕示せられたのであったのであります。

 この人生の真実境は言語や思想に彩られた天地ではありませぬ。私共の思慮分別の波紋の上に眺めた天地は、それはほんの表面

だけの天地で、私共は通例はその天地に生活しているのでありますけれど、それは真実の人生生活ではありませぬ。私共はその表

面の波動に過ぎない思想や言語の世界に欺かれて、かえって真の生命の天地を失ってしまっているのであります。真実の世界はそ

の思想以上言語以上の神奥の世界であって、自他の相対を絶して内観無分別の世界であります。私共は皆この世界の上に生きてい

るのでありまして、そこに私の真実の魂が現実の私たらんとして悶えているのであります。この魂の表現がすなわち私の生活でな

くてはなりませぬ。念仏は斯くのごとき境地を表示した唯一の言語であります。

 この念仏の境地に一度私共が到達した端的、その境地に生き得た私の魂が私の口を借って表現れんとする時、それは差別の観念

によりて造られた言葉であってはなりませぬ。私共の観念は一つもかような魂そのものを表示するに適したものは無いのでありま

す。私共は、かような魂を表現すべき言葉の一つをも持っていませぬ。それでいてやはり声に表さずにはいられぬのであります。

と申して「ア、」と言ったり「ウン」と呻ったりしただけではどうも私には物足りませぬ。それでは何だか表れんとする魂と表れ

た音声とがカッチリと適合して私を動かすだけの力が無いのであります。かような焦燥の気持ちの中から、ふと私は南無阿弥陀仏

と唱えますと、そこに初めて真の魂を味わうことが出来て、私は嬉しくも現実の生に蘇生したような感を得るのであります。

 もっとも、こう申しただけでは、それはお前が今までの習慣によってそういう気持ちになるのだと反対する人があるかも知れま

せぬ。実際私にはそうであるのかも知れませぬ。しかし、私のことはどうであっても、初めてこの念仏を叫び出した方にとっては、

やはりこうして声に表現された生命の念仏であったということは、私には疑うことが出来ないのであります。そして私は、かくの

ごとき表現の道を今日までに与えられていたことを有難く感謝せずにおられぬのであります。

 斯くてこそ初めて「ただ念仏して」の御言葉に無尽の意味を味わうことが出来ます。「ただ」という言葉は「ただ口にだけ」と

いう意味ではありませぬ。また「何の考えもなくぼんやりと唱える」意味でもありませぬ。蓮如上人の仰せられるように、「口に

ただ南無阿弥陀仏と申す」ことでなくて「もろもろ雑行雑修自力の心を振り捨てて」申すことであります。「雑行雑修自力の心を

振り捨てる」というのは思慮分別を絶することで、宗祖のいわゆる「はからいを離れる」ことであります。私共が思想や言語の世

界を捨てて深く内面に透入して、真生命の天地に蘇生したる魂が新生の讚歌として叫び出したのがすなわち口唱の念仏であったの

であります。そこには理窟もなければ訳もありませぬ。ただ生命の叫びであります。もとより思想を意味する言語でもなければ思

想で解釈することも出来ませぬ。しかし、それは生命の無い単なる声ではありませぬ。それは単に発せらるる声でなくて、唱えら

れる念仏であります。生きながらの念仏であります。そこには真の人生が動いていなくてはなりませぬ。念仏為本の宗教は、かく

て人生の真の宗教であったのであります。

 私は法然上人が行為の表現をとらず、思想の表現をとらず、また言語や音楽の表現をもとらずして、最も直截簡明なる一声無韻

の音で、しかも全生の表現であるところの唱名念仏をもって宗教の本義を唱導せられたことに対して、いまさらながら驚異と尊敬

の念を禁じ得ないのであります。

 繰り返して申しますが、私は念仏は解釈すべからざるものであると思います。解釈されたる念仏、説明されたる念仏には、何の

生命をもありませぬ。真の念仏は自ずから唱えらるる念仏でなくてはなりませぬ。自分の生命の奥から魂がそのまま表れ出た全我

に即した念仏でなくてはなりませぬ。