|
帰命無量寿如来 無量寿如来に帰命し
量りなき命
私共にとって、一番大事なお聖教は何と申しましても、宗祖親鷥聖人が私共のためにお
残し下さいました正信偈でございます。この正信偈の第一句は御承知の通り「帰命無量寿
如来」でございます。訓読致しますと「無量寿如来に帰命し奉る」となりましょう。無量
寿如来とは、量りなき命の仏様ということでございます。帰命するとは簡単に申しますと
お委せするということでございましょう。
終戦後、特に「命を大切に」ということが強調せられました。人の命は地球よりも重い
と言われますが、それは一面では戦争中に「身命を鴻毛(おおとりの羽毛で、極めて軽い物のたと
え)の軽きに置く」等ということが言われた事の、丁度裏返しのような感じが致します。
考えてみると私共の命には二種類あるように思われます。一つはこの世に生まれて来て、
何年かこの世に生きて、やがて必ず死んで行く命、誠に儚い命です。二つ目は量り知れな
い遠い祖先から両親を介して現に私が受け継ぎ、そして子孫へと伝えて行く、量り知れな
い命でございます。人類は何百万年か前にこの地球上に現れたと言われますが、それも忽
然と現れたわけではなく、その前があった筈でございますから、結局命の始めを私共は知
ることは出来ません。同様に命の終わりを予測することも出来ません。そんな命も、命で
ある限りは生きているものの中にあるわけでございましょう。ところがそんな命を私共は
意識することが出来ないのです。私共が意識する命とは、何年か前にこの世に生まれて来
て、やがて死んで行かねばならぬ儚い命の方だけでございます。私共は儚い命は意識しな
がらも、量りなき命は意識することが出来ません。然し、その量りなき命のあることを証
明して下さるのは親の存在でございます。この世に子供を恵まれない人はあっても、親の
ない人は一人もありません。それは人間に限った事ではなく、生きとし生けるものは総て
親を持っているのです。ということは、十方の衆生と呼ばれる生きとし生けるものの中に
は、たとえ意識してはいなくても、必ず量りなき命が息づいていて下さるということでご
ざいます。
私共の意識する儚い命は、昔は人生五十年と申しましたが、今日延びたとは申せ、せい
ぜい百年でございましょう。蓮如上人も「五十年乃至百年の内の事也」と申されました。
その意味では人の命は誠に儚く、宇宙の歴史どころか人類の歴史に於いても、鴻毛の軽き
に比せられるものでございます。総ての生き物は必ず死なねばなりません。この優い命を
量りない命の親が支えていて下さるのでしょう。親の慈悲とは儚い命にかけられる量りな
き命の涙とでも申しましょうか。源実朝の歌に、
ものいはぬ よものけだものすらだにも
あわれなるかなや おやの子をおもふ
とありますが親子とはこうした二種類の命の関わりの現れとも思われます。親は両親から
逆算しますと、代を溯る毎に倍々になって行きます。こうした無数の親達の心が子として
の私共にかけられているのです。お経の中に「諸仏如来は是法界の身なり。一切衆生の心
想の中に入りたまふ」とございます。この様な量りなき命の親様をお釈迦様は無量寿如来
として私共にお示し下さいました。無量寿如来をサンスクリットで阿弥陀仏と申しますが、
この阿弥陀仏に帰命する時、私共は意識の上で自覚出来ない量りなき命を、お念仏の行の
中で体験的に自覚するのではないでしょうか。
私共は一度は死なねばなりません。他い命を失う時、私共は量りなき命によって生きる
のです。それを往生と申しております。あの有名な一休禅師、この方は私共の蓮如上人と
は大変懇意にせられた方ですが、この方の遺詠と称せられる和歌に、
今死ぬぞ どこにも行かぬ ここにおる
たずねはするなよ ものはいわぬぞ
というのがございます。流石に大徳の歌らしく、大変分かり易く儚い命と量りなき命の有
様を教えて下さっております。
平成三年十月
|