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南無不可思議光 不可思議光に南無したてまつる
光と智慧
ご承知の通り正信偈は「帰命無量寿如来·南無不可思議光」と始まります。帰命無量寿
如来は先月号に書きました通り、量りなき命の仏様に総てをお委せしますということでご
さいます。私達生きている者が総て量りなき命に支えられているのであれば、親鸞聖人が
「一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり」と仰せられる通り、生き物は総て血の
繫がった身内でございます。然し、私達は或る範囲は身内として認めますが、大方は縁な
き他人、他者だと思っております。身内と他人を分けるのは自我意識でございましょう。
身内とは、私の身内であって私との縁が意識される範囲内でございます。さて何処までが
身内かと限ろうとすると、それも時々の事情で広くもなり、狭くもなるものでございます。
「銭金は親子でも他人」と申します様に、場合によっては身内は一人もいなくなってしまい
ます。それが私達の現実の姿でございますが、その様な現実の底に働いて下さる親様の尊
さを教えて下さるのも仏様のお慈悲で、そのお慈悲への目覚めが南無不可思議光でござい
ます。不可思議光とは私達の思量の及ばないみ光ということで、お経の中では無量光と説
かれています。阿弥陀仏とは無量寿無量光の仏様の事でございます。
今日世界には沢山な宗教がございます。その中には光を御神体とした教えも幾つかござ
いますが、光そのものを礼拝しなくても、光が重要な意味を持つものが殆どでございます。
凡そ光というものは私達が物を見る時なくてはならぬものです。光がなければ暗闇です。
光は私と対象との中間にあって、両方を照らしますが、直接光自身を見ることは出来ませ
ん。謂わば光は彼岸にあって、此岸と対岸とを等しく照らしているということが出来ます。
光がなければ物が見えないように、又目がなければ物は見えません。目は又たとえ肉眼は
あっても智慧がなければ正しく物を見ることは出来ません。智慧は又光の様に此岸と対岸
を超えた彼岸に立たねば得られないようです。昔から「岡目八目」と申しますが、第三者
の立場、即ち彼岸に立った時、始めて此岸と対岸との関係が正しく認識せられるのではあ
りますまいか。私達は日常、何かに行き詰まりを感じた時、冷静な他人の意見を聞こうと
思うのも、他人の立つ彼岸の位置に光を感じるからではありますまいか。本当の智慧とは
常に彼岸に位置される仏様のみ光でございます。親鸞聖人は御和讃の中で、
智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁かむらぬものはなし
真実明に帰命せよ
とお詠みになっておられます。有量の諸相とは此岸対岸の相対の世界です。私達の相対界
は総て、仏様の絶対のみ光に照らされているのです。普通私達は光を、物をみる手段の様
に考えております。丁度闇の中で、懐中電灯で物を見る様に、光と目を別々に考えており
ます。そうしたこの世の目では正しく物を見ることは出来ません。電灯の当たらぬ裏側は
見えませんし、見ている私自身は遂に見ることが出来ないのです。然し、み光は対岸も此
岸も同じ様に照らしているのです。本当の智慧は対象と同時に、この私自身を見ることに
よって始めて成就せられるのです。此岸が光に照らされるということは私の正体が暗闇の
中にあるということがはっきりするということです。ソクラテスという昔の哲人が「哲学
は自分の無知を知ることに始まる」と申しました。親鸞聖人の教えでは自らの心の闇を知
ること、この闇を闇として明かして下さる仏様のみ光、それが不可思議光でございます。
この光の仏様に帰命することによって始めて、俺が俺がと我を張って実は暗闇の中に居る
私達が、そのままで量りなき命の仏様に抱かれていることを知らしめられるのです。ある
方のお歌に、
頼めとは助かる縁のなき者を
教えて救う弥陀の呼び声
というのがあります。助かる縁のない暗闇が、教えの光に照らされて、そのまま喜びに転
ずる不思議が、ただ頼めというお念仏の勧めに籠められているのです。無量寿とは仏様の
母親のような優しさを無量光は父親の賢さをお示し下さっているのです。
南無阿弥陀仏
平成三年十月
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