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法蔵菩薩因位時 法蔵菩薩の因位の時
在世自在王仏所 世自在王仏の所に在して
師弟の道
正信偈の第三·第四句は「法蔵菩薩因位時、在世自在王仏所」でございます。訓読致し
ますと「法蔵菩薩因位の時、世自在王仏のみもとにまします」でございます。法蔵菩薩と
は阿弥陀仏がお悟りを開かれて仏様になられる前の御修行中のお名前でございます。法蔵
とは法がそこから開かれてくるもととでも申しましょうか、菩薩とは仏様になられる方、
又は、仏様の境涯から私達を救う為に人間界に降りて来られた方の事でございます。大経
(曹魏の康僧鎧が漢訳した「仏説無量寿経」のこと)によりますと、過去久遠劫の昔、錠光如来という
仏様がお現れになりその後五十三仏が続かれて、次に世自在王という仏様がお出ましにな
られたのです。この時一人の王様がおられて、この仏様にお出会いなさって、早速お弟子
となって出家せられました。この方が法蔵菩薩でございます。然し、この物語は単なるお
話ではなくて、私達自身に深い関わりがございます。私達はこの世に生まれ両親の慈しみ
を受けている間は王様と同じことでございます。よく赤ん坊は王様だと申しますが、私達
は幼い時は泣きさえすれば大概の望みは叶えて貰えました。そんな私達が世間に出て、学
校に通うようになって始めて人間になる道を踏み出すわけでございます。法蔵菩薩は世自
在王仏のお弟子になられた時、人間になる道、ひいては悟りへの道を見出されたのでござ
います。今日の学校はどうか分かりませんが、私達が入学した頃には、先生はこの世で何
でも知っておられ、何でもお出来になる方の様に見えました。将に世自在王仏でございま
した。その時の純粋な敬愛の気持ちを終身持ち続ける事が出来たら、私はもっと素直に成
人していたと思われます。
私達はこの世に生まれて、色々な社会関係の中に生きて行くわけでございます。親子、
夫婦、兄弟姉妹、友人、主従、上司と部下等沢山な関係がございますが、それらの殆どは
人間だけのものではありません。動物の世界には、すべてこういう諸関係があるわけでご
ざいますが、只師弟関係だけは人間に限っている様に思われます。凡そ関係には上下関係
と対等の関係がございますが、どんな関係もこの両面がうまく嚙み合っていなければ破局
を迎えることになります。本当の師弟の間柄だけにはこの両面が均等に備わっている様に
思われます。師という文字は村の中に幟を立てている事を表わしますし、弟子とは身内を
意味しています。弟子から見れば師との関係は上下関係で師は何時でも目上でありますが
師からは弟か子の様なもので、又学友、同輩、同志と見られます。この両面が逆になって
師が上下関係を強調し、弟子が対等を主張しては師弟関係は成り立ちません。
法蔵菩薩は世自在王仏の足下に跪(ひざまづ)いて教えを求められました。然るに世自在王仏は法蔵
菩薩の求めに対して、「その事は貴方は自分で分かっている筈だ」と、学友の如く応対し
ておられます。世自在王仏と法蔵菩薩の間にある関係が、私達と親鸞聖人との間の手本で
なければならないのです。私達は親鸞聖人をお師匠様として、その教えを信じ、その教え
を行じて本当の仏弟子にならなければなりません。私達が仏様と同じ境涯に到る事は、た
だ真の仏弟子となることによって出来るのではないでしょうか。近江聖人と呼ばれた中江
藤樹(江戸時代初期の儒学者、陽明学の祖)の言葉に「それ学は人に下ることを学ぶものなり。人
の父たることを学ばずして子たることを学び、師たることを学ばずして弟子たることを学
ぶ。能く人の子たるものは、能く人の父となる。能く人の弟子たるものは、能く人の師と
なる。自ら高ぶるにあらず。人より推して尊ぶなり」とございます。
法蔵菩薩様はあくまでも世自在王仏のお弟子として、衆生済度の大願をお立てになり、
永劫の御苦労をなさって下さっております。その御苦労の中から、私達が救われる道はこ
れしかないとお案じ下さった六字名号のお念仏を信じ、お称名させて頂く時、私達は仏様
の弟子として仏様と同じ道を歩ませて頂くことが出来るのです。親鸞聖人は「親鸞は弟子
一人も持たず」と私達を同行、同朋即ち学友と呼んで下さいます。その宗祖聖人を生身の
阿弥陀様と拝み、お念仏する時、私達に真実の師弟の道が開かれるのではありますまいか。
南無阿弥陀仏
平成三年十一月
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