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五劫思惟之摂受 五劫これを思惟して摂受す
重誓名声聞十方 重ねて誓うらくは名声十方に聞えんと
五劫思惟
明けましておめでとうございます。新春に当たりまして、皆様の御健勝と御長寿をお祈
り致します。
有名な落語に「寿限無」というのがございますが、或る人が我が子の長寿を願って、檀
那寺の住職に長生きしそうな名前を選んで貰って、その全部を子供の名前にしたので随分
長い名前が出来上がって、その事で色々な不都合が起こって来るという話でございます。
その始めの寿限無は寿命限りなしと、一目瞭然でございますが、次に「五劫の擦り切れず」
というのが続きます。五劫というのは時間の長さで、劫とは一里四方の岩の上で百年に一
度天女が降りて来て舞を舞う、その羽衣でこの岩が擦り切れてなくなる時間を言うのです
五劫でも擦り切れないのですから、限りのない時間を表わしたものでしょう。この言葉は
正信偈の「五劫思惟之摂受」に由来するものと思われます。
この一句は阿弥陀様が私達を救う為に一大決心をなさって、五劫という長い間思案に思
案を重ねて、遂に願を果たし救いの道を見出されたということでございます。五劫という
のは限りのない時間で、過去に既に終わった事ではなくて、現に今も継続していることを
表わしております。阿弥陀様は大願成就して、もうお休みになっているわけではありませ
ん。今日只今も私達の為に色々と御苦労なさっているのでございます。阿弥陀様は私達衆
生の苦しみがある限り、何時何時までも生き続けて、又何処何処までも追い掛けて行って
救わずにはおかぬと誓われました。阿弥陀様はこの光寿無量の願を元として私達の為に御
苦労下さっているのでございます。私はこの五劫思惟之摂受という一句を拝読致しますと
卑俗な言葉ですが「子故に迷う親心」というのを思い出します。仏様は遣る瀬無い親心か
ら、どうしたら子供である衆生が幸せになるであろうかと心を砕いて下さっています。然
し当の子供である私達が、仏様に背を向けて俺が俺がと自我中心の生活だけに拘わってい
るのですから、仏様の親心に気付く筈がありません。世間でよく「親の心子知らず」と申
しますが、そういう私達自身が親様に背を向けて生きているのです。子供を思う親の思い
が子供に届かなければ、所詮迷いだと言われるように、仏様は私達の為に迷いに迷ってい
て下さるのかも知れません。この迷いが深ければ深いほど、その底には親様の遣る瀬無い
親心があるのです。この仏様の真実に触れた時、私達は仏様のみ名を呼び、南無阿弥陀仏
を称えるのです。「子故に迷う親心」と言い、又「親馬鹿チャンリン」等と揶揄的に申しま
すが、迷わずにおれぬ親心、子の為に馬鹿になる親の姿の奥に、純粋真実の親心が潜んで
いるのです。私達はこの親心に触れた時始めて安らぎを得るのではありますまいか。然!
私達人間の親心の中には、悲しい哉人間の煩悩が入り込んでまいります。この世の親子が
誠に心打たれる情愛を表わすことがあると同時に、又他人同士の間よりも醜い葛藤を演ず
ることが間々あります。後者は私達の生得の煩悩のなせる業でございます。そうした煩悩
に満ちた私達の中に仏様の親心が入り込んで下さって、その親心の中で私達は生まれ育っ
てまいりました。仏様は私達の為に五劫の間、そして今日も尚色々と思案を重ね苦労を続
けておられます。その中から八万四千と言われる沢山の聖教や法文が現れてまいりました
それらのお経や法文も仏様の私達に対する切ない親心の現れでございます。この親心に出
会わなければ、いくらそれらを読破しても何にもなりますまい。蓮如上人はお文の中で
「それ八万の法蔵を知るといふとも、後世を知らざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入
道なりといふとも、後世を知るを智者とすといへり」と仰せられております。こうした沢
山のお経を説かずにおれない仏様の親心が直接名告り出たものが南無阿弥陀仏のお六字で
ございます。このお六字の中に仏様の遣る瀬無い親心と、それに気付いた私達の思慕と感
謝の思いが込められているのです。そのお念仏が称えられた時、五劫の間私達の為に御苦
労下さった親様のお心が通じたのです。それを摂受と言ってあります。今日も尚仏様は、
そのお名前が十方に響くように願い続け、御苦労を続けておられます。
南無阿弥陀仏
平成四年一月
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