如来所以興出世      如来世に興出したもう所以は

唯説弥陀本願海      唯弥陀の本願海を説かんとなり

五濁悪時群生海      五濁悪時の群生海

応信如来如実言      応(まさ)に如来如実の言を信ずべし



出世本懷



 仏様がこの世にお出ましになった訳柄は、ただ阿弥陀様の広やかな海のようなお慈悲の

み心を説くためでございます。時代も思想も濁り切り、生きとし生けるものの総てに巣く

っている煩悩によって濁りに濁っているこの生死の海とも言うべき娑婆にあるものは、今

こそ仏様の遣る瀬無い親心から絞り出されたお念仏のみ教えを信じなければなりません。

 仏様がこの世にお出ましになられた訳柄を「この経を説く為であった」と仰せられてい

るお経が二つございます。それは法華経と無量寿経でございます。両者を出世本懐の経と

申しますが、前者は特に知恵勝れた聖者の為のお経でございまして、後者は愚痴の凡夫の

為の教えでございます。従って聖者としての自信のおありの方は法華経の教えをお聞きに

なれば良いのでございますが、我が身を振り返って何としても煩悩と縁の切れない、「欲も

多く瞋り腹立ち、そねみねたむ心多くひまなくして、臨終の一念に至るまで止まらず消え

ず絶えず」と言われる私達凡夫にとっては、無量寿経や観経、阿弥陀経にお説き下さるお

念仏の教えより他に救われる道はないのです。

 仏様の大慈悲は、心も言葉も及ばない世界から私達のために働き出して下さったみ心で

すから、中々筆舌では表されません。禅宗の盤山宝積という方のお言葉に「向上の一路、

千聖伝えず。学者形を労して、猿の影を捉ふるが如し」というのがあるそうでございます。

向上の一路とは、生死の世界を超えて真実の世界に至る道でございましょう。どんな知恵

勝れた聖者達も、それをお伝えにはなれない。学問をしても真髄を離れた形骸だけに苦労

していて、丁度猿が池に映った月影を捉えようとしているようなものだと言うことでござ

いましょう。私達にとって、仏様の真実を受けるには知恵や才覚は何にもなりません。唯、

自分の全体を仏様の前に投げ出して、仏様のお言葉をお受けする他はありません。そんな

私達の前に仏様のみ心がお名前となって現れ出て下さるのです。真実というものは中々言

葉には現われてくれません。どんなに美味しい料理でも、その説明だけではその味を知る

ことは出来ません。ただ食べてみた時始めてその味わいが分かるのです。芭蕉が「松島や、

あ、松島や、松島や」と詠じた時、松島の名を三度並べた中に、松島の全風光が写し出さ

れました。南無阿弥陀仏という仏様のみ名のお六字の上に、仏様の広大なお慈悲が込めら

れているのです。「お母さん」という子供の呼び掛けの中に、親子の真実が籠っているよう

に、お念仏する時私達は、仏様の全存在を我が身の上に確かめるのでございます。

 この世間で一番強い縁は血縁でございましょう。血縁のあるものは家族と呼ばれ身内と

称せられます。血縁のないものは他人でございます。仏様の家ではお念仏が血のようなも

のでございます。共にお念仏申す同行は血縁の身内のようなものでございます。御和讃の

中で親鸞聖人は、

   観音勢至もろともに

      慈光世界を照耀し

      有縁を度してしばらくも

      休息あることなかりけり

   十方微塵世界の

      念仏の衆生をみそなはし

      摂取してすてざれば

      阿弥陀となづけたてまつる

とお詠みになっておられます。念仏の衆生こそが有縁のものとして、仏様の家にまねき入

れられるのでございます。親鸞聖人は又、他人の中での生活の心象を生死の苦海とか群生

海と表わされました。それに対して仏様を親様として、お念仏の血の通った仏様の家族と

して安心して生活させて頂く私達の心象を本願海と表わして下さいました。群生海と本願

海とは又、泳ぎの出来ぬ者と泳ぎに堪能な者の海に対する気持ちの表現とも言えましょう。

泳げない者にとっては海は恐ろしい危険な場所です。泳ぎに堪能な人にとっては楽しい憩

いの場所とも考えられましょう。それを分かつものは泳ぎが出来るか出来ぬかです。そし

て泳ぎは私達が力を抜いて水に身を任せた時、自然に体得せられるのです。



南無阿弥陀仏



平成四年四月