能発一念喜愛心 能く一念喜愛の心を発すれば 不断煩悩得涅槃 煩悩を断ぜずして涅槃を得 願力無窮 一昨年御命終遊ばされました東本願寺の智子大裏方様の御遺詠だと思いますが「思はず も となへしみ名に すくはるる 身の幸せを思ふこのごろ」というお歌がございます。 このお歌を拝誦しておりますと、将にこれこそこの正信偈の二句をお歌になされたように 頂かれます。「思はずも となへしみ名」とは、能発一念のこころでございましょう。「身 の幸せ」とは不断煩悩得涅槃のこころで、「思ふこのごろ」が喜愛心でございましょう。能 発とはお念仏を称えようと思って称えるのではなくて、仏様に催されて何時の間にか我知 らず称えさせて頂くということでございます。一念とは仏様のお慈悲が私共の心に沁み込 んで下さって、勿体ない、有難いと喜愛の心となって現れ出て下さることでございます。 不断煩悩得涅槃とは「欲もおほく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多くひまな」い私共の身 そのままで、仏様のお悟りの境涯に迎え取って下さるということでございます。蓮如上人 は「されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもって 消滅するいわれあるがゆへに、正定聚不退の位に住すとなり。これによりて煩悩を断ぜず して涅槃を得といへるはこのこころなり。此義は当流一途の所談なるものなり」(五帖目第五 通「信心獲得」のお文)とお示し下さっております。 阿弥陀経の中で極楽浄土に往生した衆生は、色々な苦しみがなく、ただ諸々の楽しみを 受けるだけであると説かれております。そしてお釈迦様は苦しみの原因は煩悩であり、そ の根本は自我意識であると教えられました。親鸞聖人も「三途苦難(三毒<貪欲と瞋恚と愚痴> の煩悩による苦しみ)永く閉じ、但有自然快楽音(ただ天然の快い音楽だけが聞こえる)こ の故安楽と名づけたり」とお詠みになっておられます。従って煩悩を消滅させねば極楽へ は往けないでしょうし、涅槃とは煩悩の繫縛から脱した境涯の事でございます。不断煩悩 得涅槃とは全く道理を超えた不思議であると言わねばなりません。阿弥陀様はこの不思議 な仕事を私共の為に成し遂げて下さいます。親鸞聖人は御和讃で、 無明長夜の燈炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ 願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず 仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず とお詠みになりました。道理の上では所詮助からぬ私共が、罪障のまま煩悩のままで救わ れるというこの不思議の証明は信じそうにない私共が信じ、念仏の称えられそうにない私 共がお念仏するという事実でございます。先に挙げました大裏方様のお歌の「思はずも となへしみ名に すくはるる」というこの事実が阿弥陀様の本願の不思議を証明しており ます。又聖人は「智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし」とお詠みになっております。誠に道理を超えた願力の不思議 を実証するものこそ、お念仏にほかなりません。 人生は旅に例えられますが、旅と放浪との違いは帰るべき家のあるなしであろうと思わ れます。どんなに長い旅でも、親や家族の待つ家があって、何かの時には何時でも帰れる し、又家族が駆け付けてくれるのであれば、それは旅にほかなりません。然し、家も家族 もなければ行き倒れて終末を迎える放浪でございます。放浪は常に不安の中にありますが、 旅には安心があります。然も絶えず家族と連絡が取れていれば、幾ら離れていても心は家 にあるのと同じでしょう。今日家の観念は大変稀薄になりましたが、それでも親のない人 はありませんし、親心によって育まれなかった人もありますまい。私共を生み育てて下さ った親心のお慈悲こそ仏様とお呼びする方でございます。仏様のお膝元こそ私共の究極の 家でございます。曽良(俳人松尾芭蕉の門人)という方の句に、 行きゆきて倒れふすとも 萩の原 というのがございます。曽良は萩の原をもってお浄土を象徴しているのでございましょう 南無阿弥陀仏 平成四年五月 |