凡聖逆謗斉廻入     凡聖逆謗斉しく廻入すれば

如衆水入海一味     衆水海に入りて一味なるが如し



一つの味



 凡というのは罪悪生死の凡夫のことで聖とは正しい道を求めて、一所懸命精進しておら

れる方のことで、逆とは人の道を踏み外した者、謗とは人の世の持ちつ持たれつの道理を

承知出来ずに、あくまで自分中心の考えを押し通そうとする者のことでございましょう。

そういう善い人も悪い人も、一度み教えに触れてお念仏の道に入ったならば、丁度この世

の色々な河川が何れも流れの行く末は海に入って塩辛い同じ味になってしまうように、お

念仏の道に入られた方は皆、同じ信心の喜びを味わわれるのです。

この信心の味わいというのは、海の水に例えられるように、砂糖水やシロップのように

甘いものではありますまい。然し、毎日味わう味噌汁が決して甘いものではないけれども

「おふくろの味」等と言われるような深い味わいを持っているように、お念仏も又、仏様の

お慈悲の籠った深い味わいがあるのでございます。歎異抄の中で唯円坊がお師匠様の親鸞

聖人に「お念仏を申しても嬉しいという気持ちにもなれないし、又急いでお浄土へ参りた

いという気持ちにもなれませんがどうしたことでございましょう」とお伺いした時、聖人

は「私も貴方と同じ思いである。然し考えてみれば、そうした喜ぶ心の起きない私共をお

目当ての仏様のご本願でありますから、一層頼もしく思われるのです。喜ぶ心の起こった

り、急いでお浄土へ参りたいと思うようでは、却って可笑しいのです」とお答えになって

おられます。この頼もしく思う心が海水の味に例えられ、又味噌汁の味になぞらえられる

お念仏の味わいではないでしょうか。

 皆様御承知の吉川英治氏の小説『宮本武蔵』の中に出てくる沢庵禅師が、或る時三代将

軍家光公と色々ご歓談の果てに「一度禅家の食事を差し上げたいと存じますが如何でしょ

うか」と申し上げられたそうです。家光公は大変に喜ばれて早速日時を約束して、当日を

待たれたそうです。その日は刻限を計ってお忍びで沢庵禅師の僧坊へ出掛けられました。

早速書院に案内され「暫くお待ちを」と挨拶されて、独りで待たされたそうです。半刻、

一刻と時間は経つけれども中々膳部は出て参りません。将軍様も少々苛立たれた頃、漸く

膳部が出されましたが、その上には炊き立ての麦飯と挙げ立ての沢庵漬が並んでいたそう

です。将軍様は早速にすっかり召し上がって箸を置くと共に「ああ美味かった」と仰しゃ

ったそうです。物の味わいを本当に味わうには、空腹が大事な条件のようでございます。

どの様な山海の珍味も、こちらが満腹の状態では十分に味わうことは出来ないのではない

でしょうか。

 私達は御縁があって仏様のみ教えに会い、我が身は罪深き浅ましき凡夫であり逆謗とい

うのも実はこの我が身の事であったと気付かされた時、心に渴仰を感ずるのです。そうし

た渴仰即ち心の空腹に対して与えられるお念仏が、お名号が私達の心を満たして下さるの

です。その時の味わいが「頼もしい」と言われ、又一味と言われるものではありますまい

か。御和讃では、

   名号不思議の海水は

      逆謗の屍骸もとどまらず

      衆悪の万川帰しぬれば

      功徳のうしほに一味なり

と詠まれてあります。

 終戦の頃を思えば、誠に勿体ないと思う程、今日では食料は豊富でございます。従って

グルメ等と言って、私達は百味の飲食に囲まれているようでございます。然し本当の食通

とは色々な食べ物の味が嚙み分けられる人の事でございましょうが、幾ら通であっても空

腹の時の麦飯の味が分からなくては本物ではありません。落語の中にも、食通自慢の若旦

那が腐った豆腐か何かを到来物と偽られて「チリトテチンだ」等と言って食べさせられる

話がございますが、これでは本当の食通とは申せません。たとえ麦飯であっても、その味

を「美味しい」と味わうことの出来る人こそ本当の食通ではないでしょうか。総ての食通

に通じる一つの味「美味しさ」を噛み分けることが、一番大事なことと思います。



南無阿弥陀仏



平成四年六月