摂取心光常照護     摂取の心光常に照護したまえば

已能雖破無明闇     已(すで)に能く無明の闇を破ると雖も

貪愛瞋憎之雲霧     貪愛瞋憎の雲霧は

常覆真実信心天     常に真実信心の天を覆えり

譬如日光覆雲霧     譬えば日光の雲霧に覆わるれども

雲霧之下明無闇     雲霧の下明らかにして闇なきが如し



曇り時々晴



 大悲のみ心は、日光が草木を照らし温め養い育て護り導くように、私共の心を常に照ら

し護(まも)って下さっているから、私共の心の愚痴の暗闇は一応晴れているのであるけれども、

貪欲、瞋恚、愛憎等の妄念は雲霧のように、信心の大空を覆うているのです。然も、丁度

日光が雲霧に覆われていても、その下は全く暗いことはないのと同じように、私共が仏様

のお救いにあずかるということについては、もう再び以前のような真の暗闇に陥ることは

ないのです。

 私共が仏様のみ教えに触れて、御信心を得ることは、今まで夜の暗闇の中にあったもの

が夜明けに出会って始めて太陽の光に触れるようなものでございましょう。明暗というの

は、まずは昼と夜との関係のようなものでございます。然し、夜が明けて昼の世界に入っ

たからといって、私共の昼の世界には、又晴と曇りという明暗の関係があるのでございま

す。昼と夜とは太陽のあるなしで明暗がはっきりしておりますが、晴と曇りとはさほどは

っきりとは致しません。晴れといってもいいような薄曇りもあれば、夜と紛らうような曇

りもあります。何れにしましても、私共が毎日暮らしている世界は、殆ど(曇り時々晴)

の状態で、雲一つない日本晴れも、懐中電灯の要るような曇りも滅多にあるものではあり

ません。然し、どんなに曇っておっても、その雲の上には何時でも太陽が同じように照っ

ているのです。飛行機で雲の上に出れば、何時でも同じ日本晴れですが、私共の暮らして

いる所は何時でも雲の下なのです。そしてその雲は私共の住んでいるこの地表から湧き出

るのです。そしてこの雲のおかげで私共は日向にあるものと蔭にあるものとを、又物の表

裏を等分に見分けることが出来るのではありますまいか。

 地底の洞窟の中を流れる水の中にも、動物が生きておりますが、何時も暗闇の中に生き

ているものには眼がありません。眼があるということは太陽の光の下にあるということで

す。又私共の眼は直接に太陽を見ることは出来ません。直接に太陽を見つめれば、眼はつ

ぶれてしまいます。私共の眼は元々、雲を隔てて太陽の光に触れるように出来ているのか

も知れません。私共は雲のあるおかげで、曇っているおかげで物を十分に見ることが出来

るのでしょう。雲は太陽を遮る邪魔物ではなくて、雲のおかげを喜ばねばならないのでは

ありますまいか。雲の暗い面だけではなくて、明るい面も見ることが正しく物を見るとい

うことでございましょう。誰方かのお歌に、

   行く秋の 大和の国の 薬師寺の

     塔の上なる ひとひらの雲

というのがございますが、雲を仰ぎ見ることも大事であろうと思います。私共の心の中に

は、丁度この地表から限りなく雲霧が湧き出るように、様々な煩悩が湧き上がってまいり

ます。然し、太陽が何時も同じように雲霧の上を照らし続けているように、煩悩に満ち溢

れた私共の上に、常に仏様の暖かいお慈悲の光が投げかけられているのです。そしてこの

雲霧のような煩悩があればこそ、私共はこのお慈悲に気付かせて頂くのです。蓮月尼の有

名なお歌に、

   宿かさぬ ひとのつらさを 情けにて

     朧月夜の 花の下ぶし

というのがございますが、ここには他人の薄情さに対する恨みを、却ってお慈悲と喜ぶ心

の転回が教えられております。「雲霧の下明らかにして闇なきが如し」とは、闇がはっきり

と闇として見えるということでございましょう。闇が闇として見えるということは、闇が

ないのと同じでございます。御和讃に、

   仏光照耀最第一

     光炎王仏となづけたり

     三途の黒闇ひらくなり

     大応供を帰命せよ

とございます。煩悩が煩悩として見えるということは、仏様の大きなお慈悲の光に包まれ

ていることでございます。



南無阿弥陀仏



平成四年七月