獲信見敬大慶喜     信を獲て見て敬い大に慶喜すれば

即横超截五悪趣     即ち横に五悪趣を超截す



抱かれて



 お経の中に「法を聞いて能く忘れず、見て敬い得て大に慶ば、、則ち我が善き親友なり、

是の故に当に意を発すべし」というお言葉があります。又親鸞聖人は御和讃で、

   他力の信心うるひとを

     うやまひおほきによろこべば

     すなはちわが親友ぞと

     教主世尊はほめたまふ

と詠んでおられます。お経の中では「仏様のお法りを聞いて心に留めて想い起こしては有

難い事と大に喜ぶようであれば、その人は私の大事な友達である」と説かれ、この正信偈

では「御信心を得て大に喜べば、その場で横さまに五悪趣を超えて仏様のお浄土に往生す

る」と説かれております。御和讃では見て敬い大に喜ぶ対象は他力の信心を得た人となっ

ております。法を聞いて深く心に留めるということは、私共にとっては信心を得るという

ことでありましょう。信心を得るということは具体的には、他力の信心を既に得られた方

とお出会いして、その方に深く心ひかれるということでございましょう。他力の信心を得

られた方とは、出会った私共にお念仏と共に手を差し伸べて下さる方の事でございます。

他力の信心とは自ら信じ、又人を教えて信心に入らしめることでございます。そんな信心

の働きが、私共の友達として手を差し伸べて下さる事なのです。

 その手を差し伸べられる私の方はと申せば、既に八十に近い齢を数えてはおりますが、

又色々と教育も受けて参りましたが、幼い頃に比べて少しはましになったかと振り返れば、

ちっとも善くなってはおりませんどころか、いかり腹立ちそねみねたむ心多く隙なく、煩

悩の興盛は地獄より外に当てのない思いに沈むばかりでございます。五悪趣とは六道とも

呼ばれる地獄·餓鬼·畜生·阿修羅·人·天から阿修羅を省略した五つの境涯の事でござ

います。煩悩に身を委せた日暮らしからは、この五つの境涯をぐるぐる経めぐる輪廻転生

より仕方がないかも知れません。どうしてもこの輪廻から抜け出せない絶望が地獄を感じ

させるのでございます。親鸞聖人も歎異抄によれば「地獄は一定すみかぞかし」と仰せら

れております。この様に全く救いのない日を送っている私に「お前さんもそうか、私も実

はそうなんだ。そういう私共を何もかも心得て、何とかしてやりたいという阿弥陀様の御

本願ではないでしょうか」と両手を広げて私共を抱き取って下さるお慈悲が、地獄一定の

私共をそのままお浄土への道に転じさせて下さるのです。転ずると申しましても、地獄に

堕ちつつある私共が急に方向転換するわけではありません。地獄に堕ちつつある私共が、

仏様と共に、仏様の懐に抱かれて地獄に堕ちるのでしょう。たとえ地獄の中でありましょ

うとも、仏様に抱かれておれば、そこは私共にとってはお浄土なのでございます。

 昔、或る所に乞食の母子がおりました。多分橋の下をねぐらにしていたと思われますが、

ある時子供が母親の言うことを聞かぬので、母親が「そんなに言うことを聞かぬ子は、誰

かに貰ってもらう」と叱ったそうです。子供はびっくりして、「堪忍して頂戴。もうしませ

んからお母さんとこに置いて」と泣いて訴えていたそうです。乞食の子供が養子にやられ

ても、一般的には現在より悪くなる筈はありませんが、子供にとってはどんなに悪い状況

であろうと母親の膝の上に勝る安住の場所はありません。私共にとっても又、親様の懐の

中に勝る安住の地はないのではありますまいか。

 即横超截とは、即とは「我が親友である」と手を差し伸べて下さる、将にその時という

ことでございましょう。横超截とは、地獄に堕ちるそのままがお浄土への道と意味が変わ

るということでございましょう。仏様が「我が友」として抱き取って下さる時、私共にと

っては地獄の苦しみも苦にならなくなるのです。お念仏とは仏様にお出会いしてみ名を呼

ぶことです。それは又「我が友よ」と呼び掛けて下さる仏様のお呼び声です。それが私共

の地獄の熱風をやさしい涼風にかえて下さる不思議でございます。



合掌



平成四年八月