一切善悪凡夫人       一切善悪の凡夫人

聞信如来弘誓願       如来の弘誓願を聞信すれば

仏言広大勝解者       仏 広大勝解の者とのたまえり

是人名分陀利華       この人を分陀利華となづく

弥陀仏本願念仏       弥陀仏の本願念仏は

邪見憍慢悪衆生       邪見憍慢の悪衆生

信楽受持甚以難       信楽受持すること甚だ以て難し

難中之難無過斯       難中の難これに過ぎたるはなし



あきらめ



 世間には善い人もあり、悪い人もあるけれども、善人悪人と判然分かれているわけでは

ありません。時と場合によっては善い事もすれば悪い事もするのが普通の人でございます

そうしたありふれた私達が仏様の大きなお慈悲の教えに触れて心に留めるならば、仏様は

その人をよく教えの真意を理解した立派な人であると仰せになり、その人を白蓮華と名づ

けておられます。ところがその阿弥陀様の御本願のお念仏のお謂われを聞けば聞く程、我

が身が己本意の独りよがりのよこしまな者であることが気付かれて、お念仏の教えを我が

身の上に頂くことが大変に難しいことが分かって参ります。

 先日ラジオで早朝の宗教の時間を聞きましたが、その折りは基督教関係の渡辺和子?と

いう方のお話でございました。この方は、かの二·二六事件の時、反乱軍に虐殺されなさ

った当時の警視総監の渡辺錠太郎氏の令嬢のようでした。この方が二·二六事件の五十周

年の記念の催しとしてNHKで反乱軍の縁の人との対談に出られたそうです。その時、局

の待合室でコーヒーを出されたけれど、昔、自分の眼の前で父を虐殺した側の人と同席し

ていると思うと、そのコーヒーがどうしても飲めなかったそうです。自分は五十年の歳月

を過ごし、又反乱軍の信条も一応の理解はしておった積もりであったけれども、私の心の

中には、理性ではどうにも始末のつかぬ情念が蟠(わだかま)っていてどうしようもなかったと語って

おられました。この渡辺さん程ではなくても、私達の心の中には何時も、我が身、我が身

内が一番可愛いという情念が巣くっているのです。都々逸に「私の胸を開いて見せりや、

あるのは色気と欲ばかり」というのがあるそうですが、そうした私達がお念仏の教えを我

が身の上に頂くことは、それは不可能と言ってもよい程、難しいことでございます。とこ

ろがその不可能を可能にしようとして阿弥陀様の御本願が建てられました。私達がこの仏

様の遣る瀬無い、深いお慈悲に気付かせて頂いた時、仏様からの下されものとしてのお念

仏が、私の口から自然に漏れ出て下さる時、その私を仏様は広大勝解者とほめ、又白蓮華

と呼んで下さるのです。

 正信偈のこの八句は、依経分と申しまして、親鸞聖人がお経によってお作りになった部

分の最後でございます。ここに汚泥の中から白蓮華が咲き出るように、不可能が可能に転

じ、絶望の中から歓喜が湧き出る不思議が説かれてございます。仏様のみ教えを聞信する

ということは、今まで世間にありふれた只の人だと思っていた私が、過って悪い事をする

かもしれないけれども、又善い事もするそんな人間だと思っていた私が、自分の胸を開い

て見ると色気と欲気ばかりのとても善人などとは呼べない悪人であったと気付かせて頂く

と、いよいよお念仏から遠ざかっている自分が見えて参ります。親鸞聖人は「いづれの行

も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という絶望の中に「ただ念仏して

弥陀に助けられまいらすべし」という法然上人のみ教えを頂かれたのでございます。

 昔、ギリシャのソクラテスは本当の知は「無知の知」であると申しました。又「実る程

頭の下がる稲穂かな」とか「諦められぬと諦めた」等と逆説的な言葉が色々ございます。

諦めという言葉は仏教では大変大事な言葉でございます。釈尊の初めの御説法でお説きに

なったのも苦集滅道の四諦でございました。諦めるという言葉には二通りの意味がござい

ます。一つは明らめる、はっきりさせてたのしくなるという意味で、他は思い切る、断念

するという意味でございます。正信偈の上掲の八句は諦めという言葉の二重の意味を、前

半では積極的な面を、後半ではその消極的な面をお示し下されているように拝読せられます。



南無阿弥陀仏



平成四年九月