顕示難行陸路苦       難行の陸路苦しきことを顕示して

信楽易行水道楽       易行の水道楽しきことを信楽せしむ

憶念弥陀仏本願       「弥陀仏の本願を憶念すれば

自然即時入必定        自然に即の時必定に入る

唯能常称如来号        唯能く常に如来の号を称し

応報大悲弘誓恩        大悲弘誓の恩を報ずべし」といえり



難行易行



 龍樹菩薩は、自力の修行は難しくて、陸上の旅の苦しいようなものであることを示し、

他力のお法(みのり)は行じ易くして、船中の旅の楽しいようなものであることを信ぜしめて、弥陀

如来の本願を念ずれば他力のはからいによって自からすぐさま必定不退の位に入る。その

上はただ常にみ名をとなえて、この御慈悲の御誓いの御恩を報ぜよと仰せられました。

 私達は皆、この苦しい人生にあって心から安楽の境地を求めております。そしてこの安

楽の境地は、私達が苦しみの根本原因である私達自身の煩悩を統御しなければ決して得る

ことは出来ないのです。この生得の煩悩–それは貪欲·瞋恚·愚痴を始めとして百八ある

と言われます–を調伏するには、私達は随分と苦しい修行をしなければなりません。それ

は遙か彼方にある安楽の世界を目指しての長い長い旅路で、その途中には幾多の苦難を克

服しなければならないのです。龍樹菩薩は一歩も退かぬ覚悟でこの苦難の旅を続ける者こ

そ丈夫志幹即ち最も男らしい男であると仰せられました。然し私達は我が身を振り返って

みれば、とてもこの苦難には耐えられそうにありません。私達は安楽の境地を願っており

ますが、出来ればその安楽の世界への旅路も又安楽でありたいと願うのです。楽あれば苦

あり、苦あれば楽ありというのが因果の法則でありますが、私達はその法則に逆らって、

楽あって又楽ある道を求めようとするのです。

 私も幼い頃、戯れ歌に、

   世の中に寝るほど楽はなかりけり

      如何なる馬鹿か 起きて働く

というのを聞いたことがございます。私達の根性は、出来れば何時までも寝ておりたい、

否、寝たい時には寝、起きたい時には起きて、兎に角好きなようにして一生を送りたいと

いうのでございましょう。そういう根性を見通して、龍樹菩薩は儜弱怯劣(にょうにゃくこれつ:素質や能力が劣っ

ていて、弱々しい)
だとか怯弱(こにゃく)下劣だとか申しておられます。何れにしても誠に女々しい根性

であると指摘しておられるのです。これが実は安楽を願う私達の本性なのではありますま

いか。そういう私達の為に阿弥陀様の御本願が立てられ、仏様の御苦労があったのでございます。

 この阿弥陀様のお慈悲にすがり、仏様のお船に乗せて頂くと、私達は何の苦労もなしに

安楽浄土への旅を続けさせて頂けるのです。山を越え、谷を渡る陸上の旅に比べれば船旅

は誠に楽でございます。只私達は阿弥陀様の御本願を信じ、旅路を仏様にお委せしなけれ

ばなりません。龍樹菩薩はこの女々しい私達に、只阿弥陀様を信じお委せせよと教えて下

さいます。船に乗せて頂くには、何もいらぬ、只仏様のみ名をとなえるだけでいいのです

仏様のみ名を称えるとはお念仏することでございます。南無阿弥陀仏と称えるのです。南

無阿弥陀仏を称えておれば、私達は何時の間にか、本当に安心して安楽浄土への旅を楽し

ませて頂けるのです。昔の御講師の香樹院様は、

   念仏の声だに 口に絶えせずば

       御名よりひらく 信心の花

とお詠みになっておられます。

龍樹菩薩は私達に三つの事を教えて下さいました。先ず第一には易行道を願う者は、阿

弥陀様の救わずには置かぬという御本願を信じ、第二に御本願の船に乗せられてお浄土へ

の旅を安心して楽しませて頂くこと、第三には御恩報謝の思いを込めてお念仏させて頂く

ということでございます。親鸞聖人の御和讃には、

   龍樹大士世に出でて

      難行易行のみちおしへ

      流転輪廻のわれらをば

      弘誓のふねにのせたまふ

   不退のくらるすみやかに

      えんとおもはんひとはみな

      恭敬の心に執持して

      弥陀の名号称ずべし

とお詠みになっておられます。龍樹菩薩の三ヶ条を後の高僧方が、時代時代に応じて私達

に解説して下さいました。



南無阿弥陀仏



平成四年十二月