広由本願力廻向      広く本願力廻向に由って

為度群生彰一心      群生を度せんが為に一心を彰す

帰入功徳大宝海      「功徳大宝海に帰入すれば

必獲入大会衆数      必ず大会衆の数に入る事を獲

得至蓮華蔵世界      蓮華蔵世界に至ることを得れば

即證真如法性身      即ち真如法性の身を証せしむ

遊煩悩林現神通      煩悩の林に遊んで神通を現し

入生死薗示応化      生死の園に入りて応化を示す」といえり



五つの門



 天親菩薩は阿弥陀様の救わずには置かぬという本願の親心に触れられて、仏様のお袖に

一心に絶る事を私共にお勧めになりました。日頃我が身の事ばかりを考えて、我利我利亡

者の生活をしている群生としての私共も、何とかして救わずに置かぬとの仏様のお慈悲に、

一たび抱き取られるならば、同じ信心の中におられる沢山の方々が皆、私を仲間として迎

え入れて下さるのです。私共はその時始めて、今まで我利我利亡者とて、互いに油断も隙

もない思いで暮らす生活から、互いに他人を思い遣る暖かい安心の境涯に入る事が出来る

のです。仏様の教えに近付いて(近門)、信心を獲られた方々のお仲間にして頂き(大会衆門)、

始めて蓮華に包まれた様な境涯に入り(宅門)、そこで自分も浄土の華になった気分(屋門)

で日暮らしさせて頂くことが出来るのです。そうした勿体ない境涯を楽しませて頂く内に、

私共はご縁のある総ての方々に、この喜びを分かちたいと思うようになるのです。その時、

私共のお念仏が自然に働いて下さって、生死の娑婆世界の中で、仏様のお仕事となって下

さるのでしょう(園林遊戯地門)。天親菩薩は私共の信心の深まっていく過程を五段階に分

けて教えて下さっているのです。それを或る外国人が印度の国に入って来て、印度人の中

に入り、更に印度人のお金持ちの家に入り、やがて食堂に案内されて御馳走になり、そし

て後に庭に出て遊ぶという事に例えて、五功徳門としてお示し下さっているのです。この

門に入るということを一心という言葉で表わして下さっているのでしょう。蓮如上人は八

十余通のお文の中の半数に当たる四十通余りの中で一心一向という言葉を用いておられま

す。このお言葉をお使いにならぬ場合は「なにのやうもなくひとすちにこの阿弥陀ほとけ

の御袖にひしとすがりまいらするおもひをなして後生をたすけたまへとたのみ申」(五帖目第

十二通「御袖すがり」のお文)
せと仰せられております。これが天親菩薩の近門に当たるのでご

ざいましょうか。阿弥陀様は頼む衆生を「八万四千のおほきなる光明の中におさめいれて」

おかれます。これが大会衆門の意でございましょう。そしてこの光明の中で「わが身のほと

けにならんずることは、なにのわずらひもなし。あら殊勝の超世の本願や、ありがたの弥

陀如来の光明や」と喜ばせて頂くところが宅門で、「これしかしながら弥陀如来の御かたよ

りさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり」とは屋門の会通(教えを解釈するこ

と)でございましょう。そこから湧き出てくる仏恩報謝のお念仏こそは、園林遊戲地門と呼

ばれる化他の仏行にほかなりますまい。この五功徳門とか五果門とか言われる近会宅屋園

の信心の過程の五段階は何か特別の事ではありません。皆さんが、聞信会の例会や、又寺

の行事で西林寺へ足を運んで頂く時、西林寺の門が見えて参りますのは近門でございます

し、門を潜って入ると、先に来ておられる方が迎えて下さるでしょう。そこが大会衆門と

呼ばれる所です。その内に本堂で御一緒にお勤めをし、法話を聞かせて頂く時が宅門に当

たりましょう。法話が終わって歓談しながらお茶を頂く時が屋門と呼ばれる段階に当たり

ましょう。さて会が終わってお互いに別れの挨拶をして、足取りも軽く家路につき、家族

と語らい会う時が最後の園林遊戯地門でございましょう。

 天親菩薩のお教え下さった五功徳門とは、特別の施設があるのではございません。信心

と申しましても、特別な精神状態になることではなくて、ころころと転がるからこころと

言うと申しますが、信心とはこのこころが勢いよく弾むことでございましょう。私達は信

心の過程のこの五段階で、それぞれ心の弾みを感ずることが大切でございます。悟とは覚

る、即ち目覚めることでございます。信仰生活とは感動のある生活でございます。



平成五年二月