本師曇鸞梁天子      本師曇鸞は梁の天子

常向鸞処菩薩礼      常に鸞の処に向かって菩薩と礼したてまつる

三蔵流支授浄教      三蔵流支浄教を授けしかば

焚焼仙経帰楽邦      仙経を梵焼して楽邦に帰したまいき

天親菩薩論註解      天親菩薩の論を註解して

報土因果顕誓願      報土の因果誓願に顕す



楽邦に帰す



 今から千七百四十年程前に大無量寿経(大経)が梵語から中国語に翻訳されました。そ

れから百五十年程して阿弥陀経(小経)が、そして又二、三十年の後に観無量寿経(観経)

が訳されました。それから七十年程の後、北印度から菩提流支という方が中国に来られ、

天親菩薩の浄土論を訳されました。仏教では経律論に通じられた方を三蔵と呼んでいます

が、この方も三蔵流支と呼ばれました。丁度同じ頃北魏に曇鸞という方がおられまして、

龍樹菩薩のお書きになった論書を研究しておられましたが、「大集経」というお経の注釈に

掛かられて病に伏されてしまいました。運よく病は癒えましたが、この事で自分の寿命を

感ぜられ、大集経注釈の大事業の為にも長生きしなければならないと思われました。偶々

江南に陶弘景という不老長生の仙術にたけた学者がいると聞かれ、教えを請いに行かれま

した。陶弘景は喜んで大師に仙経十巻を与えました。大師は大いに感激して洛陽に帰り、

そこで菩提流支に会われて、不老長生の仙経を得て来た事を吹聴されました。その時菩提

流支は「如何に不老長生と言っても、死を免れる事は出来ない。真実の生死出離の途はこ

の教えより他にはない」と一喝して観経を授けられました。曇鸞大師は既に龍樹菩薩の論

や、天親菩薩の浄土論も読んでおられたのに違いありませんが、知識としては分かってい

ても我が身の生死の問題としては体得されていなかったのでしょう。この菩提流支の一喝

によって始めて浄土の教、即ち阿弥陀様の御誓願に縋る事によって始めて生死を超えるこ

とが出来ると気付かれたのです。

 親鸞聖人は正信偈の中で、前半には浄土の三部経に基づいて、後半には七高僧の論釈に

依って、阿弥陀様の御本願に委せてお浄土にまいらせて頂くお念仏の教えを説いて下さい

ましたが、その七高僧の中で入信の過程を伝記的にお示しになったのは、この曇鸞大師だ

けでございます。この事はこの大師の御一生が念仏行者の手本でもあり、又入信或いは回

心の過程の典型であるということでございましょう。私達は誰しもこの世にある限り、幸

せを願わないものはありません。私達はその為に色々と努力も致します。財を蓄えるのも、

世間的な名声を得たいと思うのも皆、幸せを願っての事でございます。そしてどんな努力

も、又その成果も一挙にして無に帰せしめるものが病気とその果ての死でございます。命

あっての物種と申しますが、幸せの第一条件は無病息災でございましょう。先日ラジオで

京都の名医早川一光先生のお話を聞いておりましたら、その中で、先生が或る時西陣の老

人クラブに頼まれて、ぽっくり寺参拝のバス旅行に随行せられたそうです。その時、ぽっ

くり寺に参るのに事故に備えて医者がついて行くのはおかしい、万一事故があってぽっく

り死ねたら本望でしょうと言ったら、お婆さん日く「それはそれ、これはこれ」。私達の幸

せの一形態としてのぽっくり死を願っていても幸せの第一条件としての無病長生の願いだ

けは外せないのです。ところがこの願いが一番難しいのです。

 今日医学が進んで参りました。癌もやがて治るようになりましょう。大概の病気が治し

て貰えるようになりましたが、唯一つだけ絶対治らぬ病気があります。それは「死に病」

です。そしてこの死に病がある限り長生は幾ら長く伸びても永生ではありません。やがて

必ず死が訪れます。死の方から見れば長生きしても、若死してもさほどの差は感ぜられま

せん。又早川先生のお話に戻りますが、時折、老人の患者の中で「先生、私の臨終には必

ず枕辺に居て下さい」と頼まれる人があるそうです。この患者さんには、先生は病を治す

医者ではなくて、生死を超えさせる仏様なのです。私達には臨終に必ず仏様が枕辺に居て

看取って下さっているのです。私達は仏様のお手の中で息を引き取らせて頂くのです。



南無阿弥陀仏



平成五年三月