往還廻向由他力      「往還の廻向は他力による

正定之因唯信心      正定の因は唯信心なり

惑染凡夫信心発      惑染の凡夫信心発すれば

證知生死即涅槃      生死即ち涅槃なりと証知せしむ

必至無量光明土      必ず無量光明土に至れば

諸有衆生皆普化      諸有の衆生皆普く化す」といえり



大悲の船



 往って浄土に生まれるのも、還って衆生を救うのも、共に他力によるのである。その他

力を信ずる一念の信心が、即ち私共を正しく往生の身の上に定めて頂く因である。それ故、

道に惑い罪に汚れた私共凡夫も、一たび信心を発すれば生死の苦界にありながら、このま

ま涅槃に向かう道理を証ることが出来る。そして無量光明土に至って、あらゆる苦悩の衆

生を、皆普く救済することが出来ると曇鸞大師は仰せられた。

 私共は自分の脚で旅をするのであれば、目的地に着いたら、やれやれと腰を落ちつけて

もう一度元へ還りたい等とは滅多に思わないことでしょう。然し船や汽車電車で旅をする

場合は、容易にもう一度元に戻って出直したいとか、元の古巣を訪ねてみたい等と思うこ

とがございましょう。船や汽車は片道だけの乗り物ではなくて、必ず出発点と目的地の間

を往復しております。私共が往くも還るも自由であるのは、全く乗り物のお陰でございま

す。「往還の廻向は他力による」を平易に解釈すれば乗り物による旅の特色でございましょ

う。然し船や汽車に乗るには先ず第一にその乗り物を信頼しなければなりません。時折、

船は怖い、汽車や電車も脱線が心配だと言う人もあります。飛行機に至っては絶対に嫌だ

と言う人も少なくありません。先ずは信頼が第一ですが、普通その上に必ず乗船券や乗車

券を手に入れなければなりません。つまりキップが要るわけです。仏様の大悲のお船に乗

せて頂くには、信心とその証明であるキップ即ちお念仏を手に入れなければなりません。

「正定の因は唯信心なり」とはこんな事でございましょう。そしてこれらの乗り物はキップ

さえ手に入ればどんな人でも乗ることが出来るのです。身内のお葬式に向かう人も、又縁

者の結婚式に参列する人も、詐欺師や殺人犯であっても、皆一様に乗ることは出来ますし

船内、車中では、皆資格は同じ「お客様」でございまして、娑婆の色々な因縁は皆、消さ

れてしまいます。そして又その乗り物の経営者の所在地によってはその乗り物の中の法規

も又、その所在地の法規に準ずるようです。アメリカの飛行機に乗ればアメリカの法律に

従わねばなりません。イギリスの汽船ではイギリスの法律が支配しております。お浄土か

ら差し向けられた船の中では、私共は乗船と同時にお浄土の住人と同じ待遇を受けるので

す。そのお浄土行きの船や汽車の窓から眺める娑婆の光景は、葬式の行列も、結婚式の華

やぎも同じような一つの風景になってしまいます。悲しみも喜びも超えてしまった境地か

ら、私共はそれらを落ち着いて眺めているわけです。「惑染の凡夫、信心発すれば生死即ち

涅槃なりと証知せしむ」をこんな風に理解しては、少々平易に過ぎるでしょうか。

 曇鸞大師はこの船又汽車の行き先であるお浄土の優れた点を、その国土について又その

主宰者としての仏様について、次いでその国の国民について詳しくお説き下さっておりま

すが、今日的な言葉で言えば、すべての人が自由であって、又同時に平和である国でござ

いましょう。今日ソ連が解体して多くの少数民族が、統制から解き放されて、それぞれ民

族自決を主張して各所に戦乱が勃発しているように、この世では平和と自由は中々両立い

たしません。然しお浄土では、それが無理なく両立しているのです。私共はお浄土行きの

汽車や汽船に、お念仏と共に乗っている限り、自由と平和を体験しているのではあります

まいか。慈悲とは相手の生きものに平和と自由を保証することでしょう。平和と自由のお

浄土への旅に、手を携えてお念仏共々大悲の船に乗せて頂くことが「必ず無量光明土に至

れば、諸有の衆生皆普く化すといえり」というお言葉のお心ではないかと思います。歎異

抄にも「しかれば念仏まうすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心(首尾一貫した、徹底的な慈悲のこ

ころ)
にてさうらふべき」とございます。



南無阿弥陀仏



平成五年四月