三不三信誨慇懃       三不三信の誨(おしえ)感懃にして

像末法滅同悲引       像末法滅同じく悲引す

一生造悪値弘誓       「一生悪を造れども弘誓に値いぬれば

至安養界証妙果       安養界に至って妙果を証せしむ」といえり


内を照らす


 道綽禅師は懇ろに三不三信の義を誨えて、像法·末法·法滅の時代に亙って、益々阿弥

陀様の大願の大道を宣説し、私共衆生をお導き下さって、たとえ一生造悪の中に沈んでも、

この仏様の弘きお誓いに会えば、皆、安養のお浄土に至って、妙なる大覚の果を悟ること

が出来ると仰せられました。

 私共はこの世の日暮らしの中で様々な苦しみに出会います。そして自分の力でどうしよ

うもないと感ずる時、神様や仏様にお縋りしようと思います。そしてそれを信ずると申し

ておりますが、こうした信心は誠に得手勝手で、一旦は信じて礼拝していても、他に御利

益のある神様があると聞けば、すぐさまそちらへ向きを変えてしまいます。又困っている

間は一所懸命拝んでいても、何とか片がつけばもう忘れてしまうような、誠に自分本位の

素直でない信心でございます。素直でありませんから他人の口車に乗ってすぐ向きを変え

るようないい加減な信心でございます。又、その場限りで、何時までも変わらぬ信心であ

ることが出来ません。曇鸞大師様は、そうした私共の信心を不淳な、不決定の、不相続の

それは信心とは言えぬ不信であると誨えて下さいました。曇鸞様は御自身の信心を深く反

省なさった上で、私共人間の心理の奥を解き明かして下さったのだと思います。道綽様は

曇鸞様の三不信の誨(おし)えを、私共が仏様から頂いた本当の信心の淳心、一心(決定の信のこと)

相続心によって丁寧に照らし出して下さいました。歎異抄の中で、親鸞聖人が「親鸞にお

きては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをかふむりて、

信ずるほかに別の子細なきなり。」とお誨え下さる様に、阿弥陀様から頂いた信心は、淳心、

決定心、相続心の融合した素直で一筋で絶えることのない一念の信でございます。この一

念の信に照らし出された時、私共の信心が誠に恥ずかしい、手前勝手な不淳、不決定、不

相続の三不信であることに気付かされます。そしてこの三不信は淳心でないから決定がな

い、決定がないから相続がない。相続しないものは決定しない。決定しないものは不淳で

あるというように、ぐるぐる回っているようです。それが私共の所謂信心の実態でござい

ます。これは私共衆生の持って生まれた心の本性でございますから、昔も今も変わりはご

ざいません。そしてこの衆生の本性を照らし出して下さる仏様のみ心も、歴史の時代を超

えた永遠常住のみ心でございます。歴史を超えた無量寿の仏様が、私共の歴史の世界を照

らし出して下さっているのです。歴史を超えた常住の浄土から、仏様のみ心が私共の心の

中に入り込んで下さって、私共に我が心の得手勝手な、頼りにならぬ、気まぐれを気付か

せて下さるのではありますまいか、仏様の大悲のみ心は、お名号となって私共の心の中に

入り込んで下さいます。そのお名号は私共の心の中にお念仏となって住み着いて下さるのです。

 私もお陰様で長生きをさせて頂き、僧侶としてお参りを致しておりますと、聖人君子の

様に誤解されることがございます。然し、実際はいくらお経を読み、お話を聴いておって

も、心の中は少しも善くなってはおりません。愚痴をこぼし、腹をたて、欲の皮を張って

本当に恥ずかしい日暮らしを致しております。少しも善くなっていないどころか、子供の

頃の方が却ってましであったかと思います。この頃つくづくその思いが深うございます。

このどうしようもない心の闇を気付かせて下さるのは、お念仏を通じて私の心に響いて

下さる仏様のお慈悲でございます。私は煩悩の為に自分の目で仏様を拝む事は出来ません

が、お念仏することで、背中にお慈悲を感じます。この世にある間は背中にしか仏様を感

ずることの出来ぬ私も、命が終わったら即刻仏様のお慈悲の中に住まわせて頂くことが出

来るのです。親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり」と仰せられました。まことに仏様に

通じる私共の唯一つの道はお念仏でございます。



南無阿弥陀仏



平成五年六月