極重悪人唯称仏      極重の悪人、ただ仏を称うれば

我亦在彼摂取中      我亦彼の摂取の中にあり

煩悩障眼雖不見      煩悩眼を障えて、見たてまつらずと雖も

大悲無倦常照我      大悲ものうきことなくて、常に我を照らしたもう」といえり



佛と衆生



 私の友人に東大の理学部を出て、大学の先生になっておられる方があります。この方は

学生の頃から基督教に惹かれて大変よく勉強しておられます。この方が以前、正信偈の中

のこの四句は宗教の奥義であろうと言っておられました。ここには仏様と私達衆生との関

係が大変分かり易く示されております。私達は人間と言って間という文字が使われており

ます様に、何と表現したらいいか分かりませんが大きなお慈悲に包まれて、そのお慈悲と

の深い関わりの中に生かされている様です。このお慈悲の主体を私達は宇宙と呼んだり、

仏様と称したり致します。阿弥陀様とお呼びするのは、私共の為に名告(なの)り出て下さった、

このお慈悲のお名前でございましょう。

 さて月日の経つのは早いもので、私も去る十二月八日に玉津病院(神戸市西区玉津町にあった

結核専門病院)
を退院させて頂き、早一ヶ月余りが過ぎました。昨年の九月十一日に明舞病

院に入院し、十七日に玉津病院に転院致しましてより、病気については担当のお医者様や、

看護婦さん、又病院の職員の皆さんのお世話になり、身の回りの事については、週に二、

三回も足を運んでくれた家内や家族の者達、それに辺鄙な病院へ態々(わざわざ)見舞いにお出で下さ

った皆様方の暖かい御親切のお陰で予想外に早く退院が許可されました。今更ながら、私

の今日を支えて下さっている皆様の御恩を深く感謝させて頂いております。私は只今色々

な人間関係の中で生きさせて頂いております。近くは夫婦と親子を含む家族関係で、次い

で仏法を御縁とする寺檀関係、学校に関わる師弟関係や、校友戦友などの友人関係、又皆

様方の中にはその他に会社の中の人間関係や取引上の関係等、色々とございましょう。こ

の世にはこうした色々の関係が絡み合っておりますが、例えば夫婦関係も単なる男女の性

の関係ではありません。夫婦は年を取ってからが本物だと言われますように、性を超えた

所に本当の夫婦が出来上がるとも言えます。こうした本当の夫婦の条件は、夫々が自分を

中心に考えず、相手の事を思い遣る、却って相手の事を中心に心を働かせることがあって

始めて整えられるのではありますまいか。親子も血縁だけが拠り所ならば、義理の親子は

成り立ちません。所が義理でありながら、実の親子以上の親子がこの世にはよくあるので

す。ここでも心の通い合いが始めて親子を成り立たしめるのです。師弟関係も唯、教育だ

けならば卒業したら終わりです。然し小学校の先生が卒業して何十年経っても、矢張り先

生として慕われるのは、師弟の間に心の通い合いがあったからではないでしょうか。すべ

てどんな社会でも、それが成り立つ根本的な条件は心の通い合いがあることではないでし

ようか。そして心の通い合いとは、私の心を相手の心に通じさせることではありません。

私の心を相手に通じさせようとすれば、「こんなに思っているのに、分かってくれない」と

いう不平不満が残るだけです。心が通うとは、却って私達が素直に相手の心を私の心に引

き入れることではないでしょうか。愛とは愛されていることに気付くことではないでしょ

うか。私の方から愛するということは、自分を拡張しようとする欲の一つにほかなりませ

ん。私を包んで下さる大きな心に気付いて、相手の名を呼ぶ時、丁度幼子が母の名を呼ぶ

時の様に、私達は相手の大きな心に包まれている事に気付くのです。そのままでは中々気

付く事のない大きな仏様のみ心を、仏様のみ名、南無阿弥陀仏が気付かせて下さるのです。

「お母さん」と呼ぶ幼子には母は仏様なのです。また本当の夫婦にとって相手は仏様と拝ま

れているのです。親鸞聖人は恵信尼様(親鸞聖人の妻。親鸞聖人は妻帯する事を救世観音の「観音様自

らが妻となって一生ともに生きて上げましょう」というお告げにより、妻帯されたという)
を観音様と拝んで

おられました。また、恵信尼様は親鸞様を同じ様に観音様とんでおられました。師弟関

係も同じです。本当の師弟関係は師を仏様と拝む時に出来上がります。親鸞聖人にとって

は法然上人様は阿弥陀様の化身でございました。



南無阿弥陀仏



平成六年二月