本師源空明仏教 本師源空は仏教に明らかにして 憐愍善悪凡夫人 善悪の凡夫人を憐愍し 真宗教證興片州 真宗の教証を片州に興し 選択本願弘悪世 選択の本願を悪世に弘めたもう 摂取不捨 お念仏の教えを私達に取り次いで下さった法然上人(源空)は叡山において、大蔵経を 何度も読み返されて、その中から善導大師のお導きに会われて、仏教の一番大事な事を明 らかにされ、普段は専ら仏様の教えに背いて、ひたすら我が身の幸せ許(ばか)りを念じて生活し ている私達一般大衆を憐れに思召して、その様な私達の為に建てられた阿弥陀様の御本願 を、この悪世に弘めて下さいました。 私達は毎日毎日の生活の上に、色々なお陰を蒙っております。全部自分の力に因るよう に錯覚しておりますが、衣食住の一々を取り出しましても、何から何まで私達は他人様の お陰を受けています。私達の大部分の者は、一粒の米さえ、自分の力で生み出してはいな いのです。ましてや、着る物、住む家、その他一切のものが他人様の力を借りているので す。勿論他人様と一口に申しましても、全部が私達に力を貸して下さる方ではありません 中には私達に逆らい、又敵対する人も多く、私達に全く無関心な人も沢山いらっしゃいま す。私達と他人様との間には様々な関わり方がありまして、その関わり方によって様々な 社会関係が生じて参ります。先の蓮台月報にも書かせて頂いた様に、私達の周りには、夫 婦、親子、兄弟、師弟、友人、会社や取引関係等重厚な関係から軽い同好会、社交クラブ 旅は道連れの様なものまで色々ございます。そうした様々な人間関係を成り立たしめてい る根本には仏様と衆生との関係があると思います。そしてこの仏様と衆生との関係は、或 る時は親子の如く又或る時は師弟の如く見えますが、私達が自分自身を振り返って罪深い 存在であると気付いた時、そして罪深い身でありながら、尚且つ我が身の事だけを考えて 一層罪を深めている自分自身に気付く時、仏様はそういう私達を何とかして抱き取ろうと 追い掛け回して下さる事に気付かせて頂くのです。丁度複々線の線路の上を速度の同じ二 台の電車が同じ方向に走っている様に、二台が並んだ時私達は合図をかわす事が出来るの です。言わば、仏様の電車が私達の電車を追いかけて下さっているのです。仏様は私達に 速度を合わせて走っておられます。そしてその車から私達に「お念仏せよ」と教えて下さ っております。 昔テレビドラマで「逃亡者」というのがありました。罪を犯して何処までも逃げる犯人 と、それを何処までも追い掛ける刑事との間に、やがて不思議な信頼関係が生まれる話で した。仏様と私達衆生との間も、この刑事と犯人との関係に似ています。親鸞聖人は摂取 不捨(おさめ取って捨てず)というお言葉を「もの、にぐるをおわえとるなり」と説明し て下さっております。私達はこちらが仏様を追い回すのでなく、逆に仏様から追い回され ているのです。あの讃岐の庄松という妙好人に次の様なお話が残っております。庄松があ る寺に逗留していた時、院主が庄松に向かい「摂取不捨というはどんな意味だ」と問いま した。庄松は直ちに座を立ち大声を上げて手を拡げたので、院主は庄松が難しい事を尋ね られたので、のぼせたと思いその場を逃げた処、庄松は院主を追い掛ける。院主は本堂か ら庫裏へ、表から裏へと逃げて、遂にあんどん部屋に隠れ、中から戸を閉めて「やれやれ、 今後庄松に難しい事は問うまい。此処は分かるまい」と思っておりましたが、思いのほか、 庄松は「院主ここに居る」というや否や、戸を開き「摂取不捨とはこれなり」と言いまし た。院主は「逃げて逃げて、逃げ回った我を、遂に逃げさせぬ摂取不捨であったか」と大 いに喜ばれたそうです。 私達は生涯、仏様に背を向けて、逃げて逃げて逃げ回るわけでございましょう。然し、 逃げながら、何処までも追いかけて来られる仏様に気付く時、私達は仏様のお慈悲を喜ば せて頂くことが出来るのです。私達も忙しく逃げ回る合間に、じっと耳を澄ませて、聞き 耳を立てれば、追って来られる仏様の呼び声が聞こえて来るのです。 たにひとつ へだてて なけど こころして きけばきこえる やまほととぎす 甲斐和里子 平成六年三月 |