還来生死輪転家 「生死輪転の家に還来することは 決以疑情為所止 決するに疑情を以て所止とし 速入寂静無為楽 速に寂静無為の楽に入ることは 必以信心為能入 必ず信心を以て能入とす」といえり 信と疑と この四句のお言葉は、法然上人の選択集の中心の三心章の末にあるお言葉であります。 これは法然上人のみ教えの一番大切な箇所でございますので、親鸞聖人はこのお言葉で以 て、正信偈の依釈分を締め括っておられるのです。私達は皆、一様に心から幸せを願って おります。江戸時代の戯れ歌に、 幸せは、何時も春風暖かい お前十九でわしゃ二十 子供三人親孝行 使って減らない金百両 死んでも命のある様に というのがございます。こんな歌を聞くと、吹き出してしまいますが、実は何時でも誰し も心の底に願っていることでございます。然し現実は、待たれた春は瞬く間に過ぎ去り、 代わりに暑い夏がやって参ります。夏が終わってやれやれと思う秋は又、僅かの間で寒い 冬と入れ替わります。十九、二十の青春も夢の間に過ぎてしまいました。子供三人親孝行 と申しましても中々そうは行きません。子供の数も多すぎたり少なすぎたり、そして又、 皆が皆、親孝行というわけにも行きません。お金にいたっては、使って減らないどころか、 お足と言われる程、私達の財布を駆け抜けて行きます。死んでも命のあるようになどは、 誠に無茶な願いです。然し、この無茶な願いを私達は心の底に、じっと蓄えております。 そして何時までも死なないように思って、この世での色々な計画を立てたりいたします。 私達は一方ではこの娑婆に愛想をつかしながら他方では俺が俺がという我慢の碇によって、 しっかりとこの娑婆に縛られているのです。この我慢の碇が、正しい教えや他人の情を疑 わしめるのです。どんなに勉強してこの世の事情が分かっていても、底にこの我慢に基づ く疑いの気持ちがある限りは、この世の堂々巡りから抜け出ることは出来ません。私達の 想い描く幸せの世界は、何時でも自己中心の「私の幸せ」を満たしてくれる筈の世界です。 然しこの世には無数の人々が皆、一様に自己中心の世界を描いております。それらはやが て衝突し、争いを引き起こして参ります。 本当の幸せの世界は、争いの絶えない喧騒の世界を超えた寂静の世界で、又、自己中心 の利己的な所業のない無為の世界でなければなりません。それは私達の我を超えた仏様の 世界です。仏様は私達の娑婆を超えた世界から、私達の生活を何時でも、何処でもじっと 見詰めていて下さいます。だから仏様のみ名を無量寿(何時でも)無量光(何処でも)を 一つにして阿弥陀仏と申し上げるのです。御和讃には、 十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取して捨てざれば 阿弥陀と名づけたてまつる と詠まれております。然し私達はこの仏様の慈しみの眼差しを中々感じる事が出来ません が、教えに触れ、聞法を続けていると何時の間にか感じられて参ります。お念仏せよとい う教えを素直に受け取ってナムアミダブッとお念仏しておれば、何時の間にか自然にお念 仏が称えられて参ります。 念仏の 声だに口に 絶えせずば み名よりひらく 信心の花 香樹院(東本願寺派の学者) 信心の花が開いて、仏様のみ心に気付いた時、私達は強情我慢の煩悩のままで、寂静無 為の仏様の境涯に入らせて頂くのです。私達はいくらもがいても俺が俺がの想いから離れ られるものではありません。然し仏様はその事を先刻御承知の上で、そんな私達にはどん な方法があるかと、永い永い御苦労の末に、お念仏を案じ出して下さいました。お念仏は 仏様の境涯と私達の娑婆を結ぶ、唯一の途でございます。仏様のお慈悲を信じお念仏する 時、私達は始めてこのままで仏様の境涯に入らせて頂くのです。御和讃に次の如くござい ます。 超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど こころは浄土にあそぶなり 平成六年四月 |